年末を振り返る人がたくさんいる

やる気が出ないから文章でも書くかっていう、そういうモチベーションが不意に湧いてきたのだけど、この前は「疲れたから書く」とか言ってて、なんだろうそれって、どういうことなんだろう、文章を書くということの中で何が起こっていて、何を求めているのか、分かるような分からないような。けれど少なくとも必要なときだけそれがほしい。「毎日書く」と決めて書くのはとてもつらい。他人のそれを見ていてもしんどい、決めたから書くんじゃなくて、自ずと毎日書くことになるような動機の持ち方、存在の在り方には興味がある。毎日続けるっていうのはすごいことだ、けど続けたからえらいということになると俺はもう敵わないから、俺はむしろ自分の中で毎日続いている何かを発見することに興味がある。そのために文章を書いたりするのかもしれない毎日ではないが。

年末で人が今年を振り返っているのを見たりする。自分も今年を思い返していたのだけど、色々あって、でも忘れていることもたくさんあった。きちんと思い出すことができれば、一年という時間は正しく一年間である。思い出せなかったとき、一年はやたら早い。物事を忘れてしまうことは良いと思う、けれどそれは思い出すこととセットなんじゃないかと思う。しかし、思い出すことを思い出せないくらいに忘れてしまったとき、どうしたらいいんだろうか、なんて思ったが、それはもうどうしようもないな。思い出せない記憶がきっとたくさんある、ということはいつでも思い出せるようにしておきたい。そしてそれを忘れるときにはせめて自覚的に徐々に忘れていきたい。そんなことができるんだろうか。

今年はなんというか全体的に道の拓けた年だった。年初に演劇のことで文章を書いて、それを書いた、書けたということが自分にとって大きな道しるべになった気がする。それこそ忘れてしまいがちだけど、それも実のところ自分の力だけで書いたわけじゃなくて、その前からたくさんの人が色んな影響を与えてくれていた。あとはそういう影響をもらえるような場所にたまたま居合わせられたのは、大学が自分の居場所じゃなくなってしまったからだろうか。だから今年はわりと調子よく生きられて、去年は苦しい時期だったんだなぁというのを一年越しに思う。来年はどうだろというと来年はまた苦しい時期なんでしょうなと思う。今度こそ学生じゃなくなるので、また環境が変わる。僕は基本的に何の力も持っていないので、ちゃんと戦ったら苦しいこと請け合い。だからいかに戦わないで生きられるかを考えないといけない。

「何の力も持っていない」というのも難しい自己認識だなと思う。気を抜くと「俺はすごい、俺には才能があるぞ」ということを思ってしまう、あるいは、そういう風に見せないといけないんじゃないかという気になってしまう。それは自分で自分をすごいと思いたい気持ちがあるということと、それだけではなくて、自分をすごいということにすることを社会が求めてくる感じがある。いま、社会はすごいとされているものにしか価値を覚えられなくなっている。景気が悪いということだと思うが、景気というのはつくづく人の気分のことだと思う。ものを買わないのは未来に不安を覚えているからだ。でも未来というのはそもそも分からないものだと思う。分からないものを、他者を信じる気概が失われている。俺はその気概を持っていたい。そのためにも自分をすごいということにしてはいけない。何も力がないということの力で戦う頭脳バトル少年漫画の主人公のような身の振りで生きていく。

満足してきたというか疲れてきたのでもう終わる。最近こういう段落の整った書き方をよくするけど、もっと別な書き方ができるはず。全部同じリズムだがもっとバラバラでいいだろう。一行だけでもいいんだし、もっと長くてもいい。リズムをよく感じ、その異なりに目敏くあれ。