どろどろにつかれた

つかれたのでつかれたしかいえない。けどつかれたのをいいたい、何かしらいいたい、頭の中で考えていることを、なにかしら表現はしたいので、つかれたっていうことを書きながら、ひょうげんできたらいいし、そんなことしてたらよけいつかれそうだけど、書くことでつかれがとれるような書き方ってないかしら。思ったことを工夫なくダダ漏れで書くのはつかれないかもしれない、けどそれがべつに楽しくないただダダ漏らすだけの作業だったらつかれちゃうかもしれない。ちょっと工夫があるといいのかも、たのしいかんじの、なんかの工夫するほんの少しの頑張りがあるような、クールダウンにストレッチやるような、そういう文章の書き方をすればいいのかも。だったら実際にクールダウンにストレッチすればいいのでは? って思うけどどろどろにつかれてるのでやりたくない。回復行動を取る元気もないって死かよと思うが、死にはしないが、寝る以外したくない。でもしたほうがいいな、風呂にくらい入った方がいい。肩が痛い。

肩というか背中が痛い。なんでかわからないけど、今日はなんか夕方から背中が痛いような気がしていて、気がしたくらいで放置して、そのあと人とだらだら話していて、いろんなことを話した。そのときも肩とか背中が痛かったような。もっと体動かしながら話せばよかったのか、寝っ転がったり、いろんな姿勢を取れば良かったのに、そうしなかった気もする。相手に気を遣っちゃったからかな。お互い気を遣わずに話せたかな〜なんて思いながら帰ってたけど、そんなこともなかった? このもっとその先に、さらなる遠慮ナシの世界が広がっているのかも。人間関係奥深。せなかいたい。やんなるな。

そういうのとは別に体力がないっていう問題もある。なんかをめっちゃがんばると、プール入ったあとみたいな、呼吸苦しいみたいな肺が苦しいみたいな、運動したわけでもないのになることがある。それこそ話してただけなのに、みたいな。肺活量じゃなくてなんだ心肺機能? 機能性が下がってるのかもしれない。機能的でありたい。

野口三千三という人がいて、野口体操というのをやっている人なのだけど、その人の本に「体操とは占いである」と書いてあった。夕方に肩の、ていうか背中の痛いのに気がつきながら、うーん確かに占いだと思った。この肩を回してなんか痛いというのがあって、しかし例えばその原因がなんなのかとかはわからないからだ。どのようにも解釈できて、運動不足かもしれないし、ベッドのマットが硬いからかもしれない。あるいはこうして痛みが酷くなっているのだから、未来を予言していた、警告を発していた、ということだったのかもしれない。まさに占いみたいに。そんときのなんか痛かったのをもっとちゃんと気にかけておけば、こんなどろどろにつかれにやられてへたりこんで、パソコンかたかたしなくてすんだのかもしれない。

風呂入る元気と、その前に風呂を入れる元気がほしい。ご飯も食べたい。お腹が減った。さいきん食べてすぐ寝ることが多くて、疲れてるとそうなるのだけど、すると胃もたれがすごい。しかもどんどん噛まないで食べるようになっていて、それもあって胃もたれがすごい。でも今思ったけど噛むのも体力使うよな。体力ないので噛めずに疲れて、疲れた結果体力がない、ってどういうことやねん。なんやねんマジ。運動しないからか? 日々自分の限界と戦ってないから、たまに限界迎えちゃったときにへこたれちゃうのか? そういうことなのか? あーじゃあやっぱり今動くべき? もう体力ゼロ〜とか言ってないで、マイナスの世界に突入しろよって話か? そんなことに気が付いてしまうだなんて、「つかれがとれるぶんしょうのかきかた」の360度反対方向という感じがする。360度回すなやっていう。一回転するならそもそも回らんでよかったやんっていう。同じ景色やんっていう。

けれどもそれは違うのだ。

360度回る前の景色と、
回った後の同じ景色は、

本当は全く異なっている。

あーもうだめ。つかれた。ちょっとやすんでからごはんたべる。それはがんばる。おふろはしらん。