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前のめりに読むことについて

ようやく本の読み方がなってきた気がする。今日は散歩をしながら、本を読んだり読まなかったりした。そういうノリで本を読んでいたのが良かったのかもしれない。

本が読めないときにやってしまいがちなこととして「同じ行を何度も読んでしまう」というのがあるが、あれは行の右から左へ移っていく時間軸に対して、少し後ずさってというか後ろにつんのめって読んでいるからこそ先の行に目が移らないのではないか。そこにあるのは一字一句見逃すまいとする臆病なスタンス。

むしろ軽く読み飛ばすこと許していくべきだ。それはグイグイと読み手の側が先行して文章を引っ張っていくような読み方。「読んでいるのは俺だ。主導権は俺が握る」というようなある種の強さ。そのくらい前のめりに読んでこそ正確に行を捉えることができた気がする。今日はそういう態度でいられた。

本を僕はどんどん読めない。けど本を僕は昔から好きだ。本が読めない今はせめて本を読まない/読めない時間のことを考える。沢山の本を読む人に憧れと嫉妬を覚えながら、毎日をだらだらと過ごしている。けれどその時間が無意味で無駄であるということにどうしてもしたくない。本を読むことは重要なことだがそれだけが生き方ではない。本を読まない読めない僕のような人はごまんといる、そうした人たちの生き方を認めていけないだろうか。

本を読み読めるのが偉いのではない、しかし本を読むことは大切なことだ、これは矛盾ではなく両立可能なはずで、だから「本が読めない」ということを考える。なぜ読めないのか。どう読まないべきか。考え続けている。読むことを考えるのときっとそれは違わない。