見出し画像

韓国映画「ソウルメイト]が描く     不自由からの逃走

 言葉は時に私たちを不自由にさせる。映画を観ている間、私の頭の中をよぎっていた言葉だ。

 女性同士の親しい関係は友情なのか、愛なのか、はたまたクィアなのかとまで言われる映画「ソウルメイト」は、言わずと知れた中国・香港合作映画「ソウルメイト/七月と安生」の韓国リメイク版だ。
 甲乙つけ難い両作品はセットで視聴されている流れにある。こういうのこそ二本立てにすれば良いのになと思う。大人の事情は知りません(苦笑)。

(ネタバレしますぞ)

スーパーリアリズム絵画の意味


 冒頭、さらさらと何かを描く鉛筆の音が聴こえる。その鉛筆は人間の目を描いているところだ(私はここから既に胸が高鳴った!)。鉛筆だけで描かれた大きな肖像画のモデルは主人公のミソ(キム・ダミ)だ。

 劇中「七月と安生」というネット小説の内容が並行して描かれる中国・香港合作版と韓国リメイク版が大きく違うのはここだ。
 中国・香港合作版は「小説」を通して、韓国リメイク版は「絵画」を通して、主人公ミソとハウン(チョン・ソニ」を描いていく。要するに韓国版は2人の複雑な関係や思いを「絵画」を媒介にして視覚的に表現することに挑戦している。

 幼い頃の2人は同じオンマ(猫)を対象としても、ミソが抽象的な絵をハウンが具象的な絵を描いている。ハウンはミソの自由な絵に憧れるが、一方で恋人のジヌの顔を写実的に描きながら彼女は「人の顔を描きながらも自分の心が見える」と言っている。

 千葉県に日本初の写実絵画専門の美術館「ホキ美術館」がある。写真とどう違うんだという向きは一度訪れてみて欲しい。スーパーリアリズム絵画のエネルギーに圧倒される美術館だ。
 スーパーリアリズム絵画とは、絵の対象と徹底的に対峙しその対象が持つ本当の姿を描き出しながら作家自身が自己の姿を探し求めるものだと思う。
 その作業はまさに思索的であり修行に近いものがあるからこそ、見る側の心が揺さぶられる、それがスーパーリアリズム絵画の醍醐味だ。
 韓国版はそのスーパーリアリズム絵画の特性を十分に理解した上で演出に使っている。

ハウンが遺した未完成の絵画はミソによって完成を見る。その過程は求道にも近かったはず。


 写実絵画を描きながら自己との対話をするハウン。これは後半、ミソにも大きな影響を与えていくしこの作品を奥深いものにする。言葉に出来ないものを、言葉より遥かに多くの情報がある視覚を通じて感性に訴える。
 学生時代に絵を描いていた私にはこの演出は実にうまいと感じた。この部分は本家を凌いでいるし私の好みだ。

 映画の終わりに美術監督への追悼の言葉が流れた。大キャンパスの絵画だけでなく彼女たちの部屋の壁に貼られた絵などもとても手が混んでいた。
 その絵から彼女たちの成長と感情の揺れが伝わってくる。美術監督の並々ならぬ尽力があったことだろう。


どうでもいいがロックスターは27歳で死ぬ


 私が中国・香港作品より韓国映画、ドラマを多く観ているから文脈が理解しやすいということに他ならないが、韓国版の些細なところがとても好きだ。

 一番好感を持ったのは「27歳で死ぬことに憧れる」設定をミソに置き換えた点だ。中国・香港合作版では、好きなスターが27歳で死んだからその歳で死にたいと言っていたのは安生の彼氏だったと思う。
 ミソは一番好きだというジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」をかけながらハウンに27歳で死ぬと言う。あと10年くらい怒涛のように生きて27歳で死にたいと言う。

 27歳で死んだロックスターはジャニス・ジョプリンだけではない。
 ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソン、カート・コバーンなどなど…27歳で死んだロックスターはたくさんいて「27クラブ」と言われている(もうこれについては、ロックスターの死に関するあらゆる本を読んだ馬鹿者なので熱い気持ちがほとばしっても許して欲しい)。

 しつこく書くが(苦笑)軽いカントリー調の曲「Me and Bobby McGee」はジャニスの遺作アルバム「PEARL」の中の一曲で、ボビー・マギーという恋人なのか相棒なのかの誰かとヒッチハイクをしながら旅に出る歌詞だ。
 生前ジャニスはもう「ジャニス」と呼ばれるのは飽き飽きしたから「PEARL」と呼んで欲しいと言っていたと言う。 
 ミソはジヌに名前を聞かれて「ジャニス・ジョプリン」と答える。名前を変えたからと言ってミソもジャニスも人生の苦悩から解消されるものではないが、一時的には嫌な気分を吹き飛ばすことは出来たのかも知れない。

 その後、ミソはジヌに首飾りを譲り受けるがその意味は卒業式に男子の制服のボタンをもらうというような他愛なさではない。ミソはハウン家族と同様に安定した生活を送るうちに、27歳より長生きしたいと思うようになったからこそ、ジヌを病気から守ったお守りが自分を守ってくれると思ったというところに繋がっていくんだと思う。

言葉では説明できないものの中に本物が潜んでいる


 ミソはジャニスの夭折の部分にだけ憧れていたのではない。
 「ジャニス・ジョプリンの歌は本物だ」とミソは言う。ミソがかけたCDから聴こえるジャニスは「自由とは失うものがないこと」と歌っている。

 高校生のミソにとっての「自由」は島から出て文字通り世界を旅することだったはずだが、現実はそうはならずに2人の関係は毒にも薬にもならない男の登場で(笑)成長と共に近いづいたり離れたり心が痛むことが多くなる。
 ところで「女性2人の友情」という眼鏡でこの作品を観てしまうと、2人の愛憎関係が分かりにくくなってしまう。
 3人の関係は、自分を好いてくれているハウンの手前、ミソへの気持ちをオープンに出来ないジヌ、その間で戸惑うミソとかいう単純な男女の三角関係というよりもミソとハウンにとってこんな煮え切らない平凡な男はイケメンであれ重要ではなかったということだと思う(イケメンであれ、は不必要だな。すみません)。

 なぜなら絵を描きたいというハウンにジヌは「うまいけどリアルに描くことは才能とは言わない」と平気で言う人間だ。切って良いし結婚式で置き去りにされて良い(笑)。韓国版は中国・香港版よりもはるかに厳しい仕打ちを男に与えて小気味よい(すみません)。

中国・香港版より男の存在は薄くなるばかり(苦笑)この役を引き受けたピョン・ウソクに敬意!


 ミソとハウンにとって2人の間に入る余計な人間は要らないんだと韓国版は容赦がない。ここら辺は本家のほうが男にやさしい。
 余計な人間を排除しても幼馴染みの2人の関係を「友情」または「愛」と明確にさせないところがこの作品の魅力だ。 
 ミソ(微笑の意味)とハウン(本音の意味)も、安生と七月も、2人の関係性をありきたりの概念の中に閉じ込められて苦しんだのではないか。言い換えると、社会が共有する言葉の価値観に縛られたとも言える。
 人間とはそもそも非論理的であやふやで漠とした存在である。人と人の関係を「友情」や「愛」という社会的、言語的概念に縛り付けられることなく、矛盾しているものをありのまま受け入れることこそが、本物の自由へと開かれていく気がする。

見どころはキム・ダミだけじゃない


 今、制服を着せたらとりあえずキム・ダミを超える俳優はいるかなと思うくらいティーンエイジャーのミソは相変わらず魅力的だ。
 後半、ハウンに焦点が当たるとチョン・ソニがハウンの静かな強さを見せてくれる。2人が本音をぶつけ合うあのトイレシーンは本家にも劣らず迫ってくる。下着を見せるまでの早さは流石せっかちな韓国人という気もする(本家も韓国版も男は廊下に佇むしかないっていうのが良いw)。

 意外だったのは脇を固める俳優が渋くて良かったことだ。ほんの僅かしか出演シーンがないが素敵な俳優がこぞって出ている。
 中国・香港作品に疎いから本家のこんなところの味わいは今ひとつわからないが、韓国作品に親しんでいる人には韓国版は大いに楽しめる。

ギャラリストにカン・マルグム
ハウンの両親にパク・チョンソン、チャン・ヘジン
ファンシーショップのおじさんにヒョン・ボンシク
ミソを下宿させてくれたパク・ソニョン、オ・ミエ
オンマ!


あなたは以前の私のように、私は以前のあなたのように


 韓国版のエンディングは、ハウンがミソに言った「あなたは以前の私のように、私は以前のあなたのように」という台詞が生きてくる。そしてとても凛として神秘的だ。

ハウンが旅先からミソに送った絵葉書の中のバイカル湖は紺碧の湖で、
エンディングでハウンが持っている絵葉書の中のそれは白銀の世界だ。


「あなたの顔を描きたい」というミソの心の声に掛かるように、彼女の肖像画の顔からハウンの顔がオーバーラップしモノクロ画像がだんだん色鮮やかなカラーに変わっていく。ハウンが立っているのは精霊が眠っていると言われる世界最古の湖であるバイカル湖の雪原だ(ドラゴンテールと言われる岩の前にいる。龍は水を象徴するとも言われアジア人にとっては相当なパワースポットだ)。

 ミソはハウンに「やりたいことをしなさい、私が助ける」と言っている。
 彼女は果たせなかった約束を果たすためにも、ハウンが遺した描きかけの自分の肖像画をミソ自身が引き受けて描き、ハウンがミソを描きながらミソを知り自己追求をしたように、ミソもまたハウンを描くことでハウンも自分も知り、そして2人の関係性を絵の中に見出し完成させなければいけなかった。もちろんそれは2人の夢だった自由の象徴であるバイカル湖にハウンを行かせるためにもだ。

 映画「隣の女」の「一緒では苦し過ぎる。でもあなたなしでは生きられない。」という台詞を思い出す。
 お互い大好きで憧憬の気持ちがありながらも不安や憎悪に駆り立てられることもある。それでも影と日向、太陽と月、表と裏のような関係である2人の関係を「友情」とか「愛」とかいう言葉で安易に縛らなくていいとこの作品は示唆してくれる。

 さてジャニス・ジョプリンの「Me and Bobby McGee」の一節はこうだ。

Good enough for me and my Bobby McGee.
私とボビー、もうそれで十分



ところでボンシクさんの未公開映像です(嬉)


 最後に未公開だったハウンとボンシクさんのシーンが公開されていたのでどうぞひとつ(笑)。
 注目はボンシクさんが永遠の追いかけっこ達人「トムとジェリー」のTシャツを着ているところ。若いボンシクさんはネズミのジェリーのTシャツを着ているけど、未公開映像の老いたボンシクさんは猫のトムのTシャツを着ている。ええ、伏線の回収をしているこのシーンと深く関係しているので2度可笑しいです。これはお蔵入りには出来ないですね。
 それに、トムとジェリーもまた「ソウルメイト」だから!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?