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韓国映画「梟〜フクロウ〜」盲人と超人の間

 歴史小説や映画の出来は、歴史の空白部分をいかに魅力的な物語で埋めるかに掛かっている。思えば「本能寺の変」の黒幕もたくさんいるのだ(笑)

 この作品が描く時代は、歴史上では明清動乱時代の李氏朝鮮16代国王仁祖(ユ・ヘジン)の息子である昭顕(ソヒョン)世子(キム・ソンチョル)は、丙子の乱終結以後、人質として8年清で暮らし朝鮮に戻って2ヶ月で毒殺されたことになっている。

 映画は、盲人の鍼灸師ギョンス(リュ・ジュニョル)がその実力を買われ権力闘争の伏魔殿である宮殿の医院に仕えるという独創的な設定から始まる。
 映画タイトルが大いにネタバレしているが(苦笑)「鍼灸師は“梟”のごとく闇世で何を見るんだろう?」と導入から興味は尽きない。

暗闇で字の練習をする盲人?ギョンス

盲人が鮮やかに超人になる理由


 実はギョンスは全盲ではなく、暗いところでは見ることが出来、明るいところでは見えない症状だということが次第にわかるのだが宮中の人々はそれに気付いていないし自分も口外しない。
 守るべき病の弟がいる盲人ギョンスは、生活の平安、幸せを願い、幾度となく自分に言い聞かせてきた盲人の叡智とも言える言葉を繰り返す。

見たことも見なかったふりをして生き、
聞いたことも聞かなかったふりをして生きなさい

 不正を暴く、内部告発をする、それらは何故か裏切り行為と見られ、嘘も本当になってしまうという現代にも通じる処世訓だが、見えない代わりに他の感覚に長けたギョンスはたくさんの闇を知りながらも自分のささやかな生活のために静かに生きてきたに違いないことがよくわかる。

 ところがギョンスは暗闇で行われたソヒョン世子の死を目撃することになり大きな陰謀に巻き込まれていく。

 ソヒョン世子は宮中で唯一ギョンスが見えることを知り、治療に当たったギョンスに快気の礼も含めて、彼の習字練習のために拡大レンズを贈った人である。
 生まれつき盲人で母の顔を知らないギョンスと、母と離れて暮らした境遇を重ねて見ているひとり残った世孫が、投獄された母である世子嬪を助けるようにギョンスを頼ってくる。世孫は年回りも残してきた弟にそっくりで知らないふりは出来なくなる。

 ギョンスは自分を戒めてきた言葉をかなぐり捨て、ソヒョン世子を粛清した黒幕(ネタバレになるから言わないよ)を暴露するために奔走する過程には、伏魔殿の中にも人間と人間の暖かい交流があることが丁寧に描かれているのがとても良い。

 そこからのギョンスの活躍は、リュ・ジュニョルの飄々とした演技がそうは感じさせないが、よくよく考えると盲人とは思えぬ超人ぶりで(苦笑)いくら夜行性とは言え、それはどうなんだ?という座頭市ぶりである。
 しかし盲人ギョンスが超人ギョンスに変じることが荒唐無稽に思えないのは、自分の信条を破ってでも明らかにしなければならないことがあるという堅牢な勇気がこの作品には描かれているからだ。

 そしてラストは自身の手で悪を挫いて歴史は書き換えてはいない。お見事。
 スター俳優リュ・ジュニョルなら、座頭市シリーズにも負けないシリーズ化が出来るんじゃないかな(笑)

 ところでギョンス役のリュ・ジュニョルは多くの受賞を受けており、国王仁祖役のユ・ヘジン俳優と共に2人はこの作品の顔だが、ギョンスと心を交わすソヒョン世子役を演じたキム・ソンチョルの存在感がとても良かったことを言及したい。キム・ソンチョル俳優を見てくれ。

 視力はないが真実を見ようとする盲人ギョンスと並行して描かれる、視力はあるはずなのに「権力」しか見えなくなった国王仁祖を演じたユ・ヘジンのような派手さ(どこから声が出てるんだ!)はないが、ギョンスの視力に気付いたり、父仁祖との対立からその狂気を駆り立てさせるシーンなど、2人に劣らない演技であった。
 映画「長沙里9.15」での学徒兵が忘れられないが(これもいいぞ!)インタビュー記事を読むと「正確な演技をしたい」とこれまたあまり聞かない面白いことを言っているので、これからも注目していきたい。

青い光の青は「청」で「清」を、明るい蝋燭の灯は「明」を感じさせ、
明と清の間で狂っていく王の心理が伝わる

 この作品が初監督のアン・テジン監督は、素晴らしい美術を魅せてくれるイ・ジュニク監督の映画「王の男」で助監督をした人で、その真髄はこの作品でも見ることが出来る。
 画面いっぱいの光と闇のコントラストは登場人物たちの心理戦に緊張感を与え、スリラーとしての要素も十分に兼ね備えるエンタメに仕上がっている。美術監督は「パラサイト」「毒戦」などのイ・ジュンだ。映画館で観るべしな作品だ。
 そしてキム・ソンチョル俳優をお忘れなく!


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