明治タイトル

明治ゆるふわストヲリイ◆明治のガイコツはジャーナリスト

若女将は小学生のノリでタイトルつけましたこんにちは。

明治時代関連の書籍を漁っていると、よく取り上げられている資料といえば新聞雑誌
江戸時代では木版によって行われていた「瓦版」というやつですね。

海外からの活版印刷機の導入と、技術の発達のおかげで明治時代には大量の印刷作業が可能になりました。おかげで新聞事情は大きく変わっていき、様々な新聞会社が誕生しました。

有名所でいえば、「東京日日新聞(現在の毎日新聞の旧題号)」や「讀賣新聞(よみうりしんぶん)」など。現代人でもなじみのある名前です。

一方で、風刺絵などで当時の日本の様子を皮肉った記事を書いた「團團珍聞(まるまるちんぶん)」や、「東京パック」という漫画雑誌の時事漫画も人々の人気を集めていました。

そんな雑誌の一つに「滑稽新聞」というものがあります。名前を見ればなんとなく風刺ものなんだろうな…というのが想像できますが、その通り。

この滑稽新聞を発行したのは宮武外骨(みやたけがいこつ)
政権への風刺が当局から睨まれ、何度も牢屋送りや罰金発禁に見舞われても反骨反権力を貫いた人がこの外骨。

そう、ガイコツはガイコツでも骨ではなくジャーナリストだったのです。


●未来のガイコツ、香川に爆誕

1867年(慶応3年)、讃岐国阿野郡羽床村大字小野(現在の香川県)のとある庄屋の家に四男として誕生した亀四郎彼が未来の宮武外骨

小学校を卒業し、親の勧めもあって高松の方へ出て高松栄義塾に入塾した12歳の頃。
「團團珍聞」や「驥尾団子(きびだんご)」という雑誌と出会い、すっかり滑稽風刺雑誌に夢中になった亀四郎は熱心な愛読者になっていました。

15歳になると、年長の友人と共に上京、進文学舎内の橘香塾に入る事になります。父親も理解があって(四男だからというのもありそうですが)快く東京行きを許してくれました。

東京にいる間も実家からの仕送りが毎月5円(現在でいうところの約15万円!)もあったそうで、かなり悠々とした東京生活を送れたようです。

さて、生活に余裕があるとなると勉強もしっかり出来る、当時流行した政談演説なんかも聞きに行ける、新聞雑誌も買うことができるといった具合の亀四郎。

この頃には着々とジャーナリズムの世界に憧れていったようで、同居していた友人に「どうせ読み終わったなら捨てろや」と言われても、新聞や雑誌を一ページずつ丁寧に皺をのばして「火のし」をかけて保存していました。

1883年(明治16年)東京での遊学生活を終えた亀四郎、故郷へ帰ります。

同時に、早速はじめようとした事は「磊々社(らいらいしゃ)」という出版社の設立と「何求新誌(かきゅうしんし)」の発行。雑誌発行の夢を実行しようとしたのです。

そこで早速、父親にせがんで300円(現在の約900万円)の資金を出資してもらったのですが、何を思ったか亀四郎。

そのお金を手にした途端、

そう思ったが最後、雑誌作りは後回し

当時は金持ちしか手に入らないとされるぐらいの高級な自転車の購入にあててしまったのです!
父親はそれを見てどう思ったかは定かではありませんが、亀四郎自身は自転車で得意気に地元を走り回っていたとか。

ちなみにこの自転車、ノリノリで乗っていたのですがやがて車輪のゴムが駄目になってそのまま廃物→80円で引き取りルートを辿りました。


●今日から外骨!

亀四郎、18歳の春。新たな気持ちと共に名前も変えてしまいました。

その名は外骨。「がいこつ」と読むこの名前は、中国の字書「玉篇」の「亀」の説文の「亀ハ外骨内肉ノ者也」から。

まさかのペンネームではなく、本名です。とはいえ、この名前やっぱりペンネームやあだ名と思われて、役所では「本名でお願いしますよ」と、よく言われてました。

それはともかく、名前を新たにした外骨青年は自転車の一件があったせいで、雑誌を作るどころか殊勝な生活を送らざるをえなくなっていました。しかし、父母の前では静かに暮らしていた一方で、その目を憚って遊んでいたというのだからまあ懲りてないですね。

そのような毎日を過ごしていた外骨、ある日、一つ年下の房子という芸者女性と出会い一目惚れ。

彼女に夢中になっている外骨を見た外骨の母は

「それほど気に入った相手なら結婚しなさい。そしてちょっとは落ち着いた生活をしてくれ」

というどう見ても後半が本音だろうと思われるOKを出したのですが、今度は妹さんが

「金で買ったような女を姉と呼べない」

と猛反対する事になってしまいます。

妹と喧嘩にあけくれた外骨は、ついに房子と共に東京へ駆け落ち。

実家からの資金援助も見込めない貧しい生活を強いられる事になる外骨夫婦でしたが、ずっと心に持ち続けていた「雑誌発行」の夢は忘れてはいません。自転車買って散財した上に親の目を盗んで遊んでばかりいましたが、ちゃんと忘れていなかったのです!


●ついに出版!いずれがあねかいもうとか!

貧乏生活が板についてきた外骨夫婦。そんな中でも外骨は、雑誌発行の計画は進めていました。
来る1885年(明治18年)4月、郷里の母親に資金援助をしてもらい、ついに「浮木堂」から「孰姉乎妹(いずれがあねかいもうとか)」を出版したのです!

というツッコミはともかく、外骨自身はこの出版に結構賭けてまして、團團珍聞に載っていた狂詩や狂歌、都都逸など「イイネ!」と思ったものを一冊に纏めて挿絵を入れたものがこの本でした。

面白いのがこの本、外骨に由縁のある亀に因んで六角形の形をしていたところ。

この製本方法だと本棚に収まらないから、本屋は店頭の軒先にヒモでぶら下げて販売するだろうし、そうすれば本屋でも必然的に目立つだろうという外骨の目論見が見事に当たったことで、発売と同時に大評判になったのです。う~ん、アイデアの勝利。

この成功の波に乗れ!の勢いで、外骨は「浮木堂」から新たな雑誌を次々と出版しています。


とはいえ、もともと團團珍聞に影響をうけている外骨。版元というポジションに不満を持っており、もっと自由に風刺やユーモアのある雑誌や新聞を発行したいと思っていました。

そんな翌年、その夢もわりとあっさり実現します。
「屁茶無苦(へちゃむく)新聞社」発行の「屁茶無苦新聞」で、「中々尾茂四郎(なかなかおもしろう)」の名で編集したその新聞は彼自身が筆をとり、風刺やユーモアを自由に作成することができました。

当時の日刊新聞というものをパロデイしたこの新聞。基本的に風刺大好き人間が多い世の中で受けないはずがなく、とても好評を得ます。

しかし悲しいかな、パロディものは当局から風俗壊乱認定されてしまい、発禁廃刊となってしまいました。

たった一号限りで廃刊となってしまった屁茶無苦新聞。しかし、この程度で落ち込む外骨ではなかったのです。


●監獄生活はじまるよ~!

1887年(明治20年)、外骨は「頓智協会雑誌」を創刊しました。

青、緑、赤などの原色の地紋のある西洋紙に縦に大きく題字が書かれたそれは当時にしては派手なデザインで、本屋ではかなり人目を惹いたものであった事を伺わせます。内容はいつもの通り、明治政府をからかった反政府的風刺が売り物でした。

この頓智協会雑誌なんですが、メンバーもかなり豪華になっています。
かつて外骨が憧れた團團珍聞の編集長をしている田島象二、戯作者の仮名垣魯文や、落語家の三遊亭円朝などなど。他にも会員ではなかったものの、七号と九号には坪内逍遥も連載していました。

みんな大好き風刺やユーモアに加えて、この豪華メンバーだというのだから売れないはずがありません。

月二回、定価10銭(現在の約1000円)で、わずか30ページほどの雑誌。ちょっとお高めかな?と思う値段にも拘わらず売れ行きは良く、当時千部売れれば大成功と言われていた時代に四千部発行したという快挙を成し遂げたのです。

しかし、創刊から2年経った1889年(明治22年)に事件が起きます。

その年に発刊したばかりの「頓智協会雑誌」が発行停止通達を受け、さらに外骨は重禁錮三年、罰金100円に処されたのです。

問題はその内容。
この年に発布された帝国憲法を風刺した「大日本帝国憲法発布の勅語」をもじった「研法発布のげい語」と「大日本頓智研法」というものを掲載し、巻頭には「天皇ならぬ骸骨」が「憲法ならぬ研法」を下賜する絵をつけたのです。

憲法第一条の

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

「大頓智協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統治ス」

となった条例が書き連ねてありました。

もうこれは当局が動かないはずがありません

ちなみに帝国憲法を批判、風刺などして発行停止処分になったのは「頓智協会雑誌」だけでなく、「東京公論」や「新世界」などの数々の新聞雑誌が発行停止処分となっています。

外骨は不敬罪として罪に問われ、大審院で争うも結局重禁錮三年と罰金を言い渡されてしまい、哀れ石川島の監獄へ…。

つらい獄中生活の始まり…と思いきや、ただでは屈しない外骨
獄中にあった活版工場の校正係として労役に服する事になると、紙もインクも印刷機もあるんっていうんだから、もう作るしかない。

獄中出版の開始です

発行所の名前は「石川島獄中苦楽部」というあたりに相変わらず洒落がきいています。

まずは発行広告の印刷に成功。その広告を獄中に配布。たちまち見つかって没収。外骨は製本工場から追放されてしまいました(そりゃそうだ)

そんな製本工場から追い出された外骨、書物は許されていた監獄で勉学や読書にどんどん励む事になります。というか、それしかやる事がないとも言えます。

しかしそのおかげで、入獄中の外骨はどんどん知識と素養を増進させる事になり、本人も晩年に

こんな事言っていたみたいです。


●お勤めご苦労様です!

1892年(明治25年)11月に、外骨は約3年の月日を過ごした石川島監獄でのお勤めを終えて出獄する事になりました。

さて、アグレッシブの申し子である外骨はその翌年に早速「文明雑誌」を刊行します。とはいえ、ちょっと玄人向け…というか一風変わった雑誌だった為に、売り上げが伸びずに廃刊。

しかし、我らが外骨。だからどうしたと言わんばかりにさっさと次のステージへ。

当時の代表的出版社だった「春陽堂」から三つ続けて本を出版しており、こちらは好評。

件の風刺雑誌やら入獄やらでネームバリューはしっかり持っていた外骨に、春陽堂が目をつけたのも頷けます。この勢いで外骨はとんちや滑稽もの雑誌から、骨董品を紹介する真面目な雑誌までどんどん雑誌を刊行していきました。

しかしこういった波乱万丈人生を生きる男に、順調な展開は長続きしません

外骨が手がける骨董を扱った雑誌「骨董協會雑誌」が失敗。なんと4000円以上の負債が発生する事になります。

もう日本にいられません。これはもう台湾逃亡です。そして逃亡先の台湾でも養鶏事業で失敗します。一回は自分の管轄外のジャンルに手を出して、事業で失敗するというのは、あるあるなんでしょうかね…。

そうこうして1900年(明治33年)、外骨は帰国して大阪へ。生活の為に細々と働く日々…。

すっかりその威勢も削がれたかと思われますが、外骨の胸中は常に再起の機会を伺っていました。やっぱり明治の男はこれぐらいじゃあへこたれないのです。

その翌年。大阪で印刷業を営む福田さんと共に「滑稽新聞」が創刊される時がやってきました。


●滑稽新聞は新聞じゃない

ついに外骨の代表作「滑稽新聞」の誕生です。

月に二回発行の雑誌形態の新聞で、A4サイズの20ページ。基本的に庶民が感心を持つような三面記事がほとんどにも関わらず、下品すぎないセンスのあるものでした。

この「滑稽新聞」は大変な人気で、創刊号は発売後わずか二日で売り切れ、再版三版は二週間ほどで売り切れという勢い。やはり外骨の得意分野だけはあります。

この好調な滑稽新聞の発行は約8年。

様々な記事を扱っていましたが内容が内容なだけに、嫌がらせを受けたり、検事局から告発されたり、発行停止においこまれたり、罰金になったり、関係者が入獄したり、自分も入獄したり…。

合計すると、罰金刑が16回、外骨含む関係者の入獄は5回。ここまでされればどこかで筆を折りそうですが、外骨は頑として滑稽新聞のスタンスを曲げずに発刊し続けました。

ちなみに1908年(明治41年)8月28日付の東京朝日新聞によれば

「少し俗悪な物だが大阪の『滑稽新聞』は毎月七万部乃至六万五千を印刷する相だ」

と、あります。

当時の代表的な文芸雑誌の「文芸倶楽部」が約三万八千部、「ホトトギス」が七千部。文芸以外では、よく名の知られた「東京パック」でも九千部というので、この「滑稽新聞」の発行部数が別格だったのが伺えます。

だからこそ、当局はより目を光らせていたとも言えるでしょう。


●突然の廃刊

売上は好調。飛ぶ鳥を落とす勢い。

模倣雑誌も次々と増えて、ジャンルに拍車をかけていた滑稽新聞。しかしある日突然、滑稽新聞はみずから廃刊する事を決めます

どうやら彼らは、滑稽新聞165号に掲載した法律廃止論が当局の検閲にひっかかり、発行禁止処分を受けた時点で既に廃刊を決意していたようなのです。

この時期の滑稽新聞側は「司法や行政、立法から資本の支配層に至ってまで法律をないがしろにして、それに対抗せねばいけない検事すら公平な態度をとるフリをして裏で権力者の言いなりになっている状況」を浮き彫りにした記事をどんどん掲載して当局を攻撃していました。

これには当局側も黙ってはいられません
ありとあらゆる方法で滑稽新聞を追いこもうと画策するのですが、まるで暖簾に腕押し。それもそのはず、すでに滑稽新聞は廃刊覚悟の決意で記事を載せていたのです。

そう、権力に倒されるのではなく、言いたい事やりたい事をすべてやりきってから自ら滑稽新聞を終わらせるという手段をとった外骨たち。そこには彼らの自負があったのでしょう。

ちなみに廃刊宣言後ラストスパートをきった滑稽新聞は、滑稽新聞が刊行されていた8年間にわたる闘いを4ページにわたって書いた「本誌重罰史」やら「悪口辞典」など、しっかり皮肉とユーモアあふれた記事が掲載しているので、最後の最後まで滑稽新聞らしいスタンスを貫いていたのでした。


●外骨のセカンドステージ

滑稽新聞を廃刊した外骨はその後、浮世絵専門誌「此花」を創刊したり、著書や記事が役人により制裁処罰されてきた歴史をまとめた「筆禍史」、これまでの風刺滑稽ものとは違う真面目な日刊新聞「不二」を創刊します。

外骨なのに真面目な内容とはこれ如何に?となりそうですが、社長を引き受けてくれた日野さんという人との約束で、そういった方針となったようで。

しかし、この日刊新聞は「滑稽新聞の外骨」を知っていた読者の眼には、如何せん穏健で生温いものと映ってしまいます

また、内容だけでなく、大活字で読者の眼をひきつける新聞が当たり前の中で、日刊新聞「不二」は活字のサイズを単調にした雑誌的な紙面の為にどこが見どころかもわかりにくいという有様。

結果、数字は予想よりもかなり下回ってしまいその後もずっと伸び悩んでいました。

途中で外骨節が我慢できなくなったのか、当時の内閣の長州と薩摩のたらいまわし政権に対し、外骨なりのオブラートに包んだ風刺記事を載せたことで、当局から怒られて一か月ほど入獄しますが、その後も売り上げの伸びない日刊新聞を細々と続けていたのです。

1912年(大正2年)10月、外骨は自分の得意分野…雑誌に舞い戻ることになります。月刊「不二」と名付けたその雑誌で、外骨の筆は走る走る。

かつての自分の入獄体験を記事にした「誌上外骨入獄送別会」や「在獄日記」をはじめとした外骨自身の随筆や裁判の記録といった、ニュース性よりも記事の素材の面白さで勝負し、雑誌を発刊していったのです。

しかし、経営はやはり最後まで振るう事なく翌年には日刊、月刊共に「不二」は廃刊する事となってしまったのです。

これまでの外骨ヒストリーを見ているとここまで業績が振るわなかったのもなんだか珍しい印象ではあります。

「不二」廃刊後、次はどんな雑誌を作るのかな?と気になるところですが、彼が起こした行動は新たな雑誌創刊ではなく、選挙への出馬でした。

しかもその出馬は当選目的ではなく、各地を遊説して歩きながら候補者の不正や違反を暴露してまわるのが目的の出馬だったのです。さすがは外骨、場所を変えてもやる事はまったくブレていません。

友人の講釈師(軍談や講談を調子をとりながら観衆へ読み上げる人のこと)である伊藤痴遊(いとうちゆう)を応援に呼んで、奇人と有名な外骨が演説をする演説会では入場料をとっていたにも関わらず満員の大盛況。これは確実に珍獣を見に行く感覚です。

外骨も外骨でそれを分かっているので

とか言いながら、次々と候補者の不正を告発していたものだから聴衆からは大喝采。それはそれは大いにウケました

しかしながらこの頃は有権者の条件として「25歳以上の男性で直接国税10円以上納入」とされていた時代。外骨の演説に来るような聴衆に選挙権があるはずもなく、結果は外骨の予想通り落選でした。

選挙後には雑誌「ザックバラン」を創刊し、その付録として「宮武外骨落選記」を付けます。

ここまで来るとありとあらゆる事柄をネタにして記事を作るプロの中のプロを感じてきます。雑誌の内容も、お察しの通り選挙違反告発大会の様相を見せていたようです。

そんな「ザックバラン」も二号で廃刊し、自信のお金も底をついたところで1915年(大正4年)には「自分にはやましい事は一つもないから、これは昼逃げです」と意地を張りつつ東京へ夜逃げをする事になったのです。


●ただでは倒れない男

大正デモクラシー真っ只中の東京へ行った外骨。他雑誌に寄稿したり、自身も雑誌を創刊したりしながら毎日を過ごします。

ついにこの破天荒なジャーナリストも落ち着いてしまったのかと思いきや、1917年(大正6年)にまたもや当選する気もない選挙へ「選挙違反告発候補者」を名乗り出馬します。

選挙投票前から、当時発行していた「スコブル」という雑誌に「落選報告演説会を開きま~す!」という予告記事を掲載しているんだから相変わらずの外骨です。

気になる選挙結果は見事に落選。東京で三票、大阪で三票の計六票に対して、外骨は「逆に誰が投票したのか気になる」と言っていた程でした。ちなみにこの落選報告演説会は、警察の妨害があったにも関わらずとても盛況だったようです。

選挙に落ちても元気な外骨は、翌年におきた米騒動に際して「東京朝日新聞」で

「米価暴騰で困っている市民たちの相談に乗ります!生活難の方々は是非来てね。外骨より。」

と広告を出しました。

これに応じて大勢の群衆が駆けつける事態になったにも関わらず、警察によって自宅に監禁されていた外骨が姿を現さなかったので、群衆が怒って暴徒となって波及し、東京だけでなく浜松や岡崎など日本全国へ拡大して暴動が起きてしまいます

この暴動によって刑事処分された者は8,185人、起訴された者は7,780人、懲役に処された者は2,645人。暴動の激しさを伺える数字です。外骨自身も起訴されていましたが、集会届を提出していたことで、適法と認められて無罪になっています。

余談ですが、暴徒と化した民衆はパノラマ館へ真っ先に火をかけます。

燃え盛るパノラマ館を目撃した仏文学者の平野威馬雄(ひらのいまお)は当時を振り返って「きれいだったな~。よく覚えてますよ」と、映画にでてくる凶悪犯みたいな台詞を言ったとか…。

さて外骨のお話に戻りますが、政治運動ばかりしていたかと思いきやしっかり本業の方での活動も怠っていませんでした。

前述した雑誌「スコブル」だけでなく、「袋雑誌」「迷信研究雑誌」などの雑誌も刊行しているのです。本当にアグレッシブな人です。


●震災が外骨にもたらしたもの

1923年(大正12年)秋、関東大震災が起きました。

この大震災は日本の首都圏が麻痺するほどの大事件で、建物は崩れ、沢山の犠牲がでました。三日間にわたる火災は東京の下町を焼き払います。

被災中でも外骨は震災の起こった9月から翌年1月にかけて、被害の状況や原因、世相の混乱の様子を報道していきます。これは外骨本人が現場へ行き、現地で集めた情報を報道したものでした。

被災地へ実際に赴いた時、外骨は沢山の本や雑誌、新聞が火災によって消失した事を知りました。そして資料の保存の重要性を感じ、危機感を抱くのです。

1925年(大正14年)のある日、広告代理店の博報堂の創業者瀬木博尚(せきひろなお)が外骨を訪ねます。

彼が言うには「創業した博報堂が、創業35周年を迎える。それを記念して、創立当時からお世話になっていた外骨に何かお礼がしたい」との事で、外骨を訪れたのでした。

関東大震災による資料の損失を憂いていた外骨は、ここで瀬木さんに新聞雑誌の保存館を提案します。瀬木さん側も反対する事なく、保存館の設立がスタートされたのです。

東京帝大に保存館を設置する算段になると、外骨は日本全国にわたる資料収集を始めます。

東京での資料は、先の震災でほとんど燃えてしまったので必然的に地方へ足を運ぶことになる外骨。この時、満60歳でしたが、大阪、山形、青森、秋田、盛岡、仙台を旅して資料集めに奔走したのです。

外骨の凄いのは、この時期を前後して設立の多忙の中で旺盛な出版活動を展開している事です。雑誌の発行は減ってはいたのですが、出版活動をメインとしていたので単行本はどんどん出しています。


●世間から忘れられても

1932年(昭和7年)以降の外骨の著作物は、それまでの外骨に比べても少なくなります。

これは、保存館…現在の「明治新聞雑誌文庫」の資料充実の為に奔走していた事、太平洋戦争の道をひた走る日本で自由な著述活動ができなくなってしまったせいもあったようです。

露出が減れば人々から忘れ去られてしまうのは世の常。宮武外骨の名は次第に人々の記憶から姿を消していきました。

戦中での外骨は、絵葉書を集めたりしてそれまでの外骨からは想像できないほどの静かなものですが、ところがどっこい

外骨が作成したアルバムには、「馬鹿」というタイトルで馬や鹿の写真を並べその中にさりげなく軍服姿の馬上の人物を配置して間接的に批判していたり、戦中の戦意高揚絵葉書ばかり集めたタイトルが「ざまみろ」だったりと、外骨節は衰えてはいなかったようです。

やがて戦争が終わってから数年あとの1949年(昭和24年)に「明治新聞雑誌文庫」を退職します。この時外骨83歳。

そしてその6年後、外骨は89年の生涯を閉じる事になりました。


若い頃からジャーナリズムを胸に、明治、大正、昭和を奔走し続けた外骨。

時には権力と戦いながらも、批判や風刺に中にもユーモラスを欠かさない人でした。

ジャーナリスト、そして資料の保存へ熱意を捧げた彼の人生はパワフルで、まさに骨太な一生だったと言えるのでしょうね。




◆参考文献◆「宮武外骨伝(吉野孝雄・著)/河出文庫」「宮武外骨 民権へのこだわり(吉野孝雄・著)/吉川弘文館」


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