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明治ゆるふわストヲリイ◆自由党壮士は明治の世を奔走するか編

明治の世を賑わせたものは色々とありますが、自由党壮士もまたその一つ。

いわゆる政治運動家なのですが、自由党壮士は特に積極的に「自由民権」を掲げて活動していた人々を言いました。

思想を掲げて奔走する血気盛んだった彼らは、かつての維新の志士たちを彷彿とさせます。

ところで志士と壮士ってどう違うのでしょう?さっそく広辞苑先生に聞いてみると、

という事です。

前者は良いイメージ。後者は悪いイメージがありますね。しかし志士も壮士も国の為、社会の為に活動していたはず。

それなのにどうして、明治時代の「自由党壮士」「自由党志士」になれなかったのでしょう。

本日は、自由党壮士のお話です。


●俺達の参政を所望する!

1873年(明治6年)、西郷隆盛をはじめとする当時の政府の首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が辞職した政変がありました。

朝鮮へ使節を派遣するべきだという主張の「征韓論」を唱える西郷隆盛たちへ「今はまだ時期尚早」と、大久保利通たちが反対したことで西郷さんを筆頭に征韓論を支持する官僚や軍人が辞職した事件でした。

そんなバイバイ政府した征韓論指示派メンバーの中に、板垣退助とかいう岐阜で刺されてそうな政治家がいるのですが、彼は辞職後に地元の高知県に帰って立志社という団体を設立し

「国民はみな、自由に政治に参加できる権利をもっている。国民を政治に参加させるべきだ」

という自由民権を主張します。

この考えは日本中で拡散し、現政府のやり方を快く思っていなかった人々を中心に広がりを見せます。

明治政府に対して良い感情を持っていない人がいたのには理由がありました。


当時の政府は、いわゆる明治維新の立役者たち…薩摩や長州などの一部の藩の出身者に政界を牛耳られていたのです。
また、明治政府はかなり急進的な政策を行っており、その政策についていけない事で不満を持つ人は多くいたのです。

特にこの自由民権運動を積極的に活動していたのは、かつて武士階級だった人々。士族です。

四民平等によって武士階級が無くなった事で、突然仕事や収入を絶たれた多くの士族たちは路頭に迷い、落ちぶれロード真っ逆さま。
政府に対して不満を抱かない士族を探す方が大変だろうという程、かつての武士は困窮して、そして政府を恨んでいたのです。

1875年(明治8年)には、自由民権運動に呼応する全国の政治結社が統一されて「愛国社」が結成されました。この愛国社は一度自然消滅しますが、1878年(明治11年)に再興され、瞬く間に自由民権運動は全国へ盛り上がりをみせます

この運動は、士族だけでなく農村まで浸透していきます。農民たちにも政府に物申す案件があったようで。

彼らは、地租改正という新しい制度を作った政府に不満を持っていました。
「自由民権の詳しいことは分からんが、国へ不満を持つ気持ちは同じだ!俺達も仲間になるぜ!」のノリ参加していた人も少なくなかったでしょう。

ちなみに地租改正というのは

「これまでお米で納めさせていたものを現金で納めさせるように変更。そして課税の基準を、収穫高から地価(土地の値段)にあらためて、税率を地価の3%にすることで土地の所有者に税を納めさせるようにさせた」

という事です。

これのおかげで政府の財政収入は安定したのですが、政府が地価を高めに設定したもんだから、税率は軽くならないおかげで農民の負担が大きくなってしまったのです。これは農民の不満も高まりますね。一揆待ったなし。

どこの国の歴史でも農民というものは、とにかく数で押してきます。政府にとっては非常に厄介なもので、このあたりが大暴れすると鎮圧に苦労されるのはもう定説ですね。


●血気盛ん!それが俺たち自由党壮士!

そんな自由民権運動ですが、これだけ広まると過激なヤベー奴も当然のように出てくる訳で。

ヤベー奴等は急進派としてかなり過激な行動にでるようになります。政府の厳しい弾圧が行われる事で「負けてたまるか」と言わんばかりに、その過激さは更にヒートアップ。

テロや脅迫行為を行う者も出てきてしまいます。全国各地でこの急進派の自由党壮士がおこす事件も頻発。もうひっちゃかめっちゃかです。

それまでは自由民権運動を応援していた人々も、段々と過激化する壮士たちの強引なやり方をよく思わないようになり、徐々に距離を置くようになっていきます。

1897年(明治30年)に刊行された「日本新辞林」の壮士の項では「勇壮なる士」を解説する他に

「近世、定まりたる職業もなく漂泊して人の依頼を受け、談判、脅迫などを行ふ一種の人物」

という文章がつくようになってしまっています。

明治初期の辞典の壮士の項には「たくましい若者。勇ましい武士。」という解説しかなかったの対して、自由民権運動後にはそのように言葉の意味が変化してしまった程、自由党壮士はただの暴れ……元気よく奔走していたのでしょう。


そんな血気盛んな壮士たちですが、前述した通り世間の支持は受けられなくなる事で、必然的に自分たちの活動が困難となっていきます。こうなると基本働いていない活動家ばかりだった為に、資金難になるのは必至でした。

その後、政府による弾圧と懐柔だけでなく、自由民権の代表だった板垣退助や後藤象二郎たちが政府に妥協して大臣に就任してしまうと、ますます自由民権運動は分裂し、勢いは衰えてしまいました。そんな状況下で変わらず活動している者といえば過激派ばかり。

そんな彼らは庶民からすれば「志を持った活動家」ではなく、「暴れる厄介者」に他ならなかったのです。

ついには、憲法発布と国会開設が決め手となって自由民権運動は幕を閉じたのでした。

壮士たちに残されたのは、結局「まっとうな職に就いて日々を生きる道」しかなかった訳ですが、それまでろくな職業訓練もされない彼らがいざ新たに商売を始めたところで上手くいかない事も多かったようです。


●志の行方

こうして、明治時代をフェードアウトしていった自由党壮士たち。

現代人の私達から見ても「やり方がアカンと思う」と感じる程度には暴れていたわけですが(というか、ただ暴れたいだけの奴も合流していたと思う)やはり当時の人々にもそう思われていたみたいで、結局長続きしませんでした。

過激っぷりだけなら、明治維新を成し遂げた幕末志士もそこまで変わらないとは思うのですが、自由党壮士が敵対していた相手の明治政府は、かつて幕末志士が倒そうとしていた徳川幕府とまったく違いますからね~。

ていうか、その幕末を乗り越えたヤベー奴等が明治政府やってる時ですから……そりゃあただテロ行為してるだけでは勝てませんよね…。

ともあれ、こうして「壮士」は暴れ者のレッテルを貼られて「志士」となることができなかったのでした。

しかし明治時代は、自由民権のような庶民の政治への参加を説く主張だけでなく、様々な主張や運動が展開されていった時代でした。非戦論と説く社会主義や女性たちが立ち上がって説いた女性運動など…。

演説も各地で大流行した時代で、それだけこの時代では人々の政治意識が高揚していたのです。
それだけ様々な人が日本を良い国にするにはどうすればいいかを考え、主張していた時代とも言えるのかもしれません。

自由党壮士たちのやってきた活動内容は良いと言えない結果ではありますが、彼らの自由民権の考えを主張する熱意や行動は決して否定されるものではないとも思うのです。



◆参考文献◆「図説・明治事物起源事典(湯本豪一・著)/柏書房」「学問キッズネット(自由民権運動)」



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