まとまれない文章と私


やりたい事が多すぎるのか、本心から逸れた事をしているからか、常に心に充溢感が無くて困ってしまっている。
刺しゅうをしていても上の空、英語を勉強していても上の空、何をしていても何処か自分の欲求とズレている感覚があって、上の空なのである。

昔から物事に対して我慢や諦めを持っていたので、自分が一体何を求めていて、何をしたいのか、という事が明確に分かっていないのかもしれない。というか分かってない。分かってないんだよ困った事に。

「なーんでこうなるかな」
と考えに考えた所、私は自分の考えを無意識に却下してしまう癖があるらしい。本当に些細な事でも、だ。
例えば「アイスクリームが食べたい」と思っても、「いや、別に今食べなくても良いよね」と思って無視してしまうし、「なーんとなくお風呂入りたいな」と思っても「いや、この記事を全部読み終わってからにしよう」と自分の欲求を遠ざけてしまうのである。

また、”楽しい事をする””心地よい事をする”という事に対して罪悪感があるのか、「これをしたら気持ちが良い」と分かっているのにやらないのである。おかしな話だが、やらないのである。
”苦に耐える”という姿勢が骨の髄まで染み込んでしまったのか、苦しい考えや苦しい行為をしていてもつい、そのままにしてしまい、方向転換をするという事ができない。そのまま苦しもうとする。
そうして「苦しい、苦しい」と唸りながら、目の前のチョコレートを食べて「え!美味しい!気分が落ち着いちゃった」と安堵するのである。
じゃあ、苦しくなったらチョコレートを食べればいいじゃないかと思うだろうが、どうも私の快というものは残念ながらパターン化されないのである。

毎日、苦も快もコロコロと変わる。

コロコロと変わるものだから、対処する私も大変なのである。
突然些細な事に動揺して、1週間も想像上の誰かの苦を考えて涙を流し、どう頑張って機嫌を取ろうとしても取れない。
「ああ、駄目だ。今回はどう頑張ったって機嫌が取れないのだ」と絶望していると、たまたま食べたキュウリの漬物の美味しさで全てを忘れる事もある。なんなんだ、コイツは。

人生の苦について考えに考え抜いて、このままずっと誰かの為に呟き続けたり、ブログにしたためたりすれば多くの人間が救われるだろうと考えられるような本質まで辿り着いたとしても、書かない。
「あー!解決した!」
と満足して、飽きてしまうのである。いや、なんで飽きるんだよ!

何事も物事に対して一生懸命一直線に頑張るという事が難しく、ある程度自分が満足してしまったらそれ以上技術を上げようとか、誰かに広めようという気持ちが薄く、自己満足の範囲内で終ってしまうのである。
本当にこれに関しては困っていて「なんでかなー」と悩んでいるのだが、悩んだ所でどうしようもない。既に飽きてしまったものを無理に技術向上させようとしても、興味がなく見も入ってないので伸びないのである。
な…何故…。飽き性!

実際、この文章だって「文章構成が云々」とか「人に見せられる内容か」とか考えて書いた方がいいことだって分かっているのだけれど、それをすると書く気がなくなる。つまらない。文章を書くっていうのは生ものなんだよ。文章構成なんか考えてたら、キチンとお行儀のよい整ったものしかできないじゃないか。そんな文章堅くなっててつまらなくて、嫌だね。白々しくって。なーんて考えるから、今、現在進行形で考えている事をひたすら文章にするしかないのである。一瞬、迷えば追えなくなる。
私のタイピングが早いか、私の脳みそが早いかの追いかけっこである。
頭に浮かんだまま書く。そうでないと手が止まってしまい、どうもぎこちない文章になりがちだ。だから、書く時は書く事以外は考えちゃいけない。構成とかそんな事、考えちゃいけない。考えた瞬間つまらないものになっちゃうからさ。本当だぜ。ははは。

つまり、私の思考も趣味もやる事も皆即興で作られるものであり、即興のセッションなのである。何度も練習して、何度も調整して出来あがるオーケストラのような格式高いものではない。通りで突然行われるセッションに近い。あるいは唐突に誰かが歌い始める鼻歌に近い。そういう感じで生きている。本当はそんな生き方したくないんだけど。

私の思考はあちらこちらに飛び、勝手に結びついて、想像上の苦しみや悲しみ、喜びや正義等々のアイデアをものすごい勢いで作っては泡沫の如く消していく。この、泡のように消えていくアイデアをどうにか留めておこうと思うと、構成とかそういうものを考えずにひらすらノートに書くしかないのだが、タイピングの方が早いじゃないかという事に気が付いたので、最近はPCに書くようにしている。だが、困った事に即興魂故に、格好つけて書こうとすると手がピタッと止まってしまう。だから、もう、やめにすることにした。文豪ぶって格好よく書くのはやめてしまおう。私らしくないのだ。

あら、上の方の文章を見るとどうも遠い所まできてしまったようだ。関係ない所に来てしまったなあ。と思うかもしれないが、実は繋がっているのである。

私の脳は即興だが、社会的な期待は計画的でオーケストラのような動きを要求する。だから、私はその齟齬で動けなくなってしまうのである。
即興に生きようとすると、社会的な期待とズレてしまい、社会から外れて生きる羽目になるのだ。私は特別な才能も能力もないので、即興的に生きると、速攻で駄目人間に到達してしまうのである。
そう、ここで私の行動が止まってしまうのである。
自分の本質と社会的期待のズレで動けなくなってしまうのだ。
また、私の中に頑固に残ってしまっている「すごい事をしなくては人に愛されない、認められない」という汚れが行動を抑制してしまっている。

だから、「必要とされる行動以外はしてはいけない」という強力な呪いによって私は自分が何をしたいのか分からないという嘘をつき、苦しいのに社会情勢の事を考えてしまうのである。お馬鹿さんなのだが、こういう風に生きて来てしまったのだ。よくやるよな本当に。

自己の意思で生きているというよりは強迫観念で生きており、ぶっちゃけるとものすごく生きづらい。そう、生きづらい。なのにやめられない。

実際、本当に、本当に自分が何をやりたいのかと考えると、穏やかに刺しゅうと読書に耽溺し、時々人と話して生きるぐらいがいいのだろうと思う。が、それをした時に”普通”から外れる事になる。”普通”だったらどういう幸せが手に入っただろうと考えてしまう。だから躊躇する。しかし、その幸せ自体はただの予測にしかすぎず概念的であるので、幸せであるかも分からないのである。だったら、今、この瞬間の幸福を選べばいいではないか。という簡単な話になるようだが、そうともいかぬ。

マシュマロテストというものをご存じだろうか。幼児にマシュマロを1つ渡し、「先生が返ってくるまで待っていればマシュマロをもう1つあげる」と約束し、どういう行動をするかというテストである。まあ、マシュマロを速攻で口に放り込むような人間は低所得になりがちで、マシュマロを我慢する人間は高所得になりやすいというだけの話なのだが。

そう、即興で生きるということは、マシュマロを速攻で口に放り込むタイプの人間として生きるという事である。低所得一直線なのだ。低所得が幸せではないとは言えないが、社会的な安心感は低い。B'zではないのにギリギリで生きなきゃいけないのである。私はB'zではないのでギリギリじゃない方が嬉しい。誰だってそうだ。ギリギリじゃないと駄目なのはB'zであって私ではない。

それで「うーわ困ったなあ」と思い、即興で物事をして困らないのは創作ぐらいしかないのだろうか。と思い、とりあえず好き放題noteを書いてみることにした。結構楽しいなこれ。格好つけて、文章構成とか考えて書くのやめようかな。本当は社会情勢なんか考えたくないし、ありとあらゆる意味のあることは書きたくないし、つまんないもん。




コーヒー豆を買いたいです。