悩みが深い


こんな大変なことになるとは露知らず、仕事を辞めてしまった。
ギリギリ若い内にやってみたい仕事を経験してみようと思い、辞めてしまったのだ。

つい3年前まで生きる気力がなく、欲もなく、望みもなく生きていた。
しかし、今までの3年間お世話になった職場やSNSで優しい人々に出会い、少しずつ支えてもらう事でどうにか持ち直す事ができた。
縛られていた実家から脱出することも出来たので、一度仕事を辞めて、心のままに生きたい場所へ行ってみたいと思ったのだ。

多くの人を見て、言葉を交わしあって、私の中にある考えを実行に移すか否か考えたかったのだ。


どうしたら、人や物を摩耗させることのない社会を実現できるだろうか?


1年前からずっと考えていた。
仕事で消耗していく人を見て、生産によって使い捨てられる物や人がいることを知って、工業製品によって消えていく伝統工芸があることを知って、どうにかしたいという気持ちがあったのだ。

「どうにかしたい」と思っても私には力がない。
今まで有耶無耶な人生を歩んできたので、能力も実績もないのだ。
能力も実績もないから、どの方向に進んだらいいか分からない。
だから一度、外に出て、多くを見て、決めたかったのだ。

自分がどの道で私の考えを形にしていくか。

前に、「私のやりたい古着屋③」「私のやりたい古着屋④」というnoteを書いた。
この時はほとんど空想や妄想に近かった。
「そういう働き方がしたいなあ」
ぐらいののほほんとした気持である。

今回、コロナ禍が起こり、本気で自分の生き方を考える事になった。
自分は何のキャリアもない。コネだってない。スキルもない。
輝かしい過去もない。手に職もない。
ただ、やりたい事だけは分かっている。


人と物の大量消費の社会を変える力になりたい


ただ、それだけだった。それだけしかなかった。
私の中にある軸はそれだけだった。
それが叶えられないのであれば、きっと後悔するだろうという事が嫌でも分かった。

「そんな事、考えなくてもいいよ」
「あなたが考えることじゃないよ」

と散々言われて来た。
分かってる。
力のない人間が考える事じゃないことは。

でも、私は考えたかった。
私より下の世代に今の世界や社会が「いいものだ」と胸を張って言えるようにしたいからだ。
そして、私のように生きにくい人が心地よく生きられる社会を作りたいからだ。

自分の周りの人間は自己肯定感が低い人が多い。
それぞれいい所があるのに、卑下してしまったり、自分は無価値だと思い込んでしまっている。
それを見ているのが余りにも辛かった。
辛いから、変えたいのだ。

それに、貪欲のままに生産し消費する経済や社会はもう、これ以上維持する事はできないという直感もあった。
新しい経済、社会構造が必要だということは明らかだ。
分かっているのに動かないというのはものすごく苦しい。
だから、もう、動いてやろうと決心した。

じゃあ、どの仕事で? 
と考えた時、昔に書いたnote。
自分が死の淵から生きかえらせた「美しいものが見たい」という欲求。
この2つを思い出した。

昔から布地が好きだった。柄も好きだった。伝統的な刺繍が好きだった。
手仕事が好きだった。
だから、手仕事で持続可能な社会を目指そうと決めた。

決めてしまってからは早い。
Twitterで関係しそうなアカウントを片っ端からフォローをし、
気になる人のnoteは全て読んだ。


「この人となら、同じ道を歩めるかもしれない」

と思う人達を見つけることができた。
その人たちは私と比べるとずっと早く各々の道に進んでいて、技術力も高い。
だから、少し悩んでしまった。
私には志しかない。技術がない。ないないだらけである。
「もっと他の人の方が力になれるのではないだろうか」
「コロナ禍で失業者が溢れてしまったのだ。もっと能力の高い人の方がいいに決まっている」
と二の足を踏んでしまったのだ。

それからというものずっと悩んでいる。

本当にいいのか
技術職に未経験で入れるのか
将来性はあるのか
普通にはもう戻れなくなるがいいのか
そもそも無能力の私を雇ってくれるのか

とぐるぐると考えつづけてしまい、時間をすっかり浪費してしまった。
でも、それだけ悩むという事は諦めきれない部分があるという事だ。
諦めきれないから悩むのだ。
だったら、一度会ってみよう。
会って話をしてみよう。
コロナ禍の自粛が解除されたら、会って話をして、決めよう。

「できない」と言われたらその時私はどうするだろう?
食い下がるのか、諦めるのか。
その時になってみないと分からない。

分からないけれど、会ってみたい。
会うだけでもきっと、意味はある。



コーヒー豆を買いたいです。