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保育園と短大進学とがん再発

子ども①を出産後、短大へ通う計画があった私。
実は卒業した栄養専門学校が短大になり、そこで新たに保育士を取得できる学部が新設されたため。
以前勤めていて保育園の園長先生に相談して、生後3か月直前から託児所へ預けて、派遣の仕事を開始した。
そして、子ども①は、2003年4月から認可保育園へ入園となった。
当時1番小さく、ほぼベビーベッドで寝ている赤ちゃんだったのに、気が付けば高速ハイハイで保育室から脱走する子になっていた。

保育園に入園するにあたり、毒義父母に散々文句を言われたが、佳哉はどっちの味方をするでもなく、本当にイラついた。
毒義父母は、私から子どもを取り上げるとか、保育園から連れ出すとか、本当に非常識な事ばかり言われ続けた。
佳哉は、そんなこと出来るわけ無いじゃん!と、いつものように他人事。

2004年4月に、26歳になった私は保育士取得のため短大へ入学。
自分より8歳年下の子たちと一緒に机を並べて勉強をした。
26歳ママで学生は、実習が1番辛かった。
オマケに実母のがん再発・転移が発覚し、入退院を繰り返していたので、実家の手伝いもあって大変だった。
それ以外は、勉強が楽しくて仕方なかった。

2005年5月末、実母はがんが原因で肺に水が溜まりまくって緊急入院した。
陸にいるのに溺れている状態だと説明された。
その入院した翌日から、私は短大の研修旅行で北海道へ3泊4日出掛けることになっていた。
母の主治医に相談し、2~3日で急変はしないから、あなたは短大の行事に参加してきなさいと言われた。
とりあえず母の病状が気になりながらも、北海道へ行った。
母とは携帯メールで日々の報告をしていたので、メールの返信があるうちは大丈夫と自分に言い聞かせた。
旅行から帰ってきて、すぐに母の病院へ向かった。
母は、
「肺の水を抜いてもらって楽になったよ!」
と笑顔で迎えてくれた。

母はそのまま入院して、治療を続けた。
7月末、いつものように短大帰りに母の病院へ寄ると、ナースセンターにいた主治医に手招きされた。
「本人にも言えないし、お父さんにも言えないから、
 また長女の稀琳さんにだけ伝えるね。」

いつも以上に深刻そうな表情の主治医を見て、私は震え始めた。
「お母さん、そろそろかもしれないんだ。
 夏を越せないかもしれない。
 お母さんは家に帰りたがってるから、
 在宅酸素を持って家に帰してあげようと思ってる。
 明日、在宅酸素の手続きを始めてもいいかな?」

先日も、肝臓と脳に転移が判明したが、母本人には言えないままでいた。
母はこの2ヶ月の入院中、1度だけ外出ということで数時間帰宅したのみ。
「在宅酸素を使えば、どのぐらい家に居ることが出来ますか?」
どうも私の目から涙が溢れていたらしい。
近くにいた看護師が、箱ティッシュを差し出してきた。
「よくて2~3ヶ月、最悪1週間かもしれない。
 でも帰宅することが、お母さん本人の希望だからね。」

主治医も辛そうな表情になっていた。
「わかりました。
 手続きを始めてください。
 よろしくお願いします。」

私は立ち上がって、母のもとへ行こうとしたら、看護師に呼び止められた。
「今、行ったら泣いてたことがわかっちゃうから、
 落ち着くまでここに居なさい。
 もうすぐお母さんがお散歩で
 ナースセンターに来る時間だから!」

母は、夕飯前に散歩と称して、病棟内を2周ほど歩くのが習慣だった。
私は、一生懸命笑顔に戻ろうとした。
15分くらいして、母がお散歩で来たときには、いつもの笑顔に戻れていたのかな?
看護師と私で、在宅酸素の話を母に伝えると、とても嬉しそうにしていた。
この日は、私はピアノのレッスンがあったので、17:30くらいに「また明日ね~」と言って別れた。
母も
「じゃあ、気をつけてね~
 明日はテストなんだから、無理しなくていいからね~」

と笑顔だった。
これが最後の会話になるとは、お互いに思っていなかった。

これは2003年春から2005年7月末頃のエピソード。
毒義父母にいろいろ暴言を吐かれても、私は歯をくいしばって動じなかった。
佳哉は私を庇う事もなく、親に対して文句を言うわけでもなく、本当に関係のない第三者的な感じでした。
今でもそのスタンスは変わっていません。
あ、マザコンで母親の言いなりかなぁ。
私の母は、元看護師だけあって、医師の説明を聞く前に、検査の画像を見ただけでいろいろ分かっていたようでした。
後日、母の手帳に心の内を書いてあったことに気が付きました。
脳に転移がわかる数ヵ月前から、ミミズが這ったような文字になっていたので、その頃からだったのではないかと思っています。

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