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♪コンテスト参加記事 【見過ごすべからず! 土俵際の蜘蛛の糸】

序章・一級河川を眼下の2006年夏

「オマエの文章、絶対金になるよ」
こちらが根負けするまで、彼は繰り返してくれました。
そしてこの一言が結果、当時経済社会の土俵際から踵が半分飛び出た状態だった私にとって、思いもよらぬ蜘蛛の糸となりました。
 
 
この一言で、俺はこうして今も雨露を凌ぎ、分相応に舌鼓を打つ、穏やかな晩年を生きられているよ。
 
 
そんな彼との遭遇……実際には数十年振りの再会の場所は、大阪平野を流れる一級河川の下流に架かる、淀川橋梁の歩道上でした。
その手摺りはそれほど高くなく、自動車の往来で不規則に揺れが続く眼下には、仄かに悪臭を放つ濁った川面が広がっています。
報道されない落下事故が後を絶たないとの囁きが、自ずと脳裏をよぎりました。
 
全長700m以上とされる橋梁のほぼ中央に歩を進めると、そこに佇む人影が視界内に。
無事にすれ違えるだろうかと、一気に緊張感が高まりました。
身を乗り出すでもなく、それでも間違いなく真下を見つめるその姿に、
「危ないですよ」
込み上げた一言を喉元にとどめ、無事にすれ違えたことを自覚してひと息。
そこから歩速を上げようとした、その時でした。
 
「〇〇……さん?〇〇だよね?」
珍名には及ばずとも一般的でもない私の苗字を、微妙なさん付けで呼ぶ声が。 
「俺、俺だよ……わかるかな?」
 
時は2006年夏、中学卒業から29年と数ヵ月振りの、偶然が過ぎた再会でした。
 
全校生徒千人超のマンモス公立中学校、終ぞ同じクラスになることもなく、かろうじて顔と名前が一致していた程度の同窓生。
正直親しくもなかった彼は、こちらが不思議なほど親し気に、距離を詰めてきました。
このロケーションですから、急いでいることを理由に、立ち去ることは叶いません。
お茶くらいなら付き合っても構わないだろうと、そこから肩を並べて北側の河岸へと。
 
着席した彼は堰を切ったように、さほど親しくも無い私に対し、自身の苦境を語り訴え続けました。
話の真偽はさて置き、あのような不自然な場所に佇んでいた理由が、嫌でも察せられました。
「オマエだけじゃないんだよ」
これまた喉元からどうにか飲み込んだのが、この一言でした。
当時40代半ばだった私もまた、以下に述べさせていただく通り、置かれた境遇は彼と同じく、絶体絶命と感じられていました。
  

この記事 = 物語は、ここから始まったのかも?
電車内でシャッターを切るリスクもなんのその。
2023年晩夏、一発勝負のワンショットをどうぞ。


1・与えられた選択肢は自己破産一択!?

経済社会を生きる私にとって生涯最大のピンチが、膠着状態と化していました。
2002年春に独立起業からわずか数年、当時の詳細は割愛しますが、ひと言で申せば、
「経営者としての脇が甘過ぎた」
油断なる小さなケアレスミスの破壊力はすさまじく、個人事業主の私は瞬く間に、四面楚歌状態へと追い込まれていきました。
 
法人すなわち会社組織ではないため、倒産という形での終焉は許されません。
少々専門的な話になりますが、個人事業上の負債は無限責任。
責任を取っての辞任や自主退職などで、個人としての債務を逃れる選択肢は存在しません。
数多の先人に倣って弁護士の無料相談に出向いてみるも、
「自己破産以外のお力添えは致しかねます。貴殿に債務整理能力は見出せません」
頼みの綱の専門家の回答は、見事に一致していました。
 
債務整理を助けていただけないなら、自分で対応するしかありません。
「足掻くだけ足掻いてダメだったとすれば諦めもつくけれど、相談段階での却下を鵜呑みに、ここでギブアップはあり得ない!」
自身の事業体は実質休業状態のまま、日々自ら債権者に連絡を取り、謝罪から手探りでの和解交渉を始めました。
和解成立が後送りになればそれだけ、遅延損害金などが加算され、自身の立場はより苦しくなるばかり。
専門知識も乏しく、まだインターネット上の知恵袋的な情報も、昨今ほど配信されていなかった時期。
出費を極限まで抑えるべく、大手書店で専門書を立ち読みして、関連知識を収集。
債権者との折衝に際し、内容が丸見えとなるファクシミリはNGだと、この時知りました。
ならばと私からの連絡は封書という、今思えば古典的を過ぎて陳腐な手法を続けていました。
 
こうした手探りの右往左往と、先様からの急な指示に何時でも対応できるよう、基本24時間待機姿勢の毎日。
一人息子は高校受験を控えており、本来であれば日銭を稼がねばなりませんが、拘束時間が避けられない外勤は、実質不可能でした。
 
ちなみにこの時期、法定金利のグレーゾーンの見直しがなされ、過払い金なる言葉がチラホラと囁かれ始めていました。
この恩恵で命拾いすることになるのですが、ここでは割愛させていただきます。
 
ビジネスホテルの喫茶店とベッドメイキングで踏ん張ってくれた家内の収入に頼らざるを得ず、近未来のライフプランは崩壊状態。
妻子を守るべく離籍を視野に入れるも、家内の強い反対に、返す言葉が見当たりませんでした。
申し訳なさに圧し潰されそうになりつつも、意地だけで平静を装っていたつもりでしたが、
「今だから笑い話だけど、あのときは完全に、心身が吹っ飛んでいたわよ」
なるほど自分のことは見えないものだと、時間差で痛感させられた、今も忘れられない一言です。
  

2・捻り出した日課が運んだヒント

無意識のうちに極限まで狭まっていた視野と、凝り固まってしまっていた思考回路。
それでも人間追い詰められれば、それなりの打開策を模索するようです。
 
法に触れず確信犯的に他人さまを傷つけなければ、できないこと以外、何にチャレンジするのも自由なはずだ。
格好がどうのこうのなどと言っている場合じゃない。
俺は往生際悪く足掻けるだけ足掻いて、ここから這い上がって生き延びてやるぞ!
 
 
無理なくこの結論に至れたことで、不思議と無用な肩の力が抜けた気がしたことを、今も鮮明に覚えています。
同時にこのスタンスがこの時以降の、自身の価値観の幹となっています。
 
複数の債権者(銀行や信販会社)との債務整理折衝が遅々として進まぬなか、私の1週間のスタートとなる月曜日は、これが定番となっていました。
 
・自宅から一級河川を南に渡り、片道徒歩4~5kmの大阪梅田まで、ありったけの無料求人誌を回収に赴く。
 
複数社が発行しているエリア別の冊子をすべてピックアップすれば、20冊を越えました。
この時期の求人市場はまだ三次元の紙媒体が中心で、求人誌・新聞の求人告知・ハローワークが三本柱。
求職活動にネットを用いたエントリーなる手法は、一般的ではなかったと記憶しています。
丈夫な手提げ袋にそれらを分け入れ、携えて帰宅から、すべての記事のチェックを終えれば、月曜日が暮れようとしていました。
 
当然自由に使えるお金が極限まで少額なため、往復は徒歩。
暑さ厳しい折、長い橋梁の歩道から濁った川面を目にすれば、ふと魔が差しそうになることもあったような?
「電車に乗ると履歴書と証明写真が準備できない」
そんな金欠状態、買い食いなど御法度ですから、ペットボトルに白湯を入れた水筒を携えて。
いつどのタイミングで債権者や仕事のチャンスと遭遇しないとも限らず、服装は襟付きシャツにスラックスと革靴。
書き上げた履歴書と職務経歴書も、常に持参していました。
 
なんとも滑稽極まりない40男の平日日中ですが、当時の私にとっては、これが精一杯。
ある時など自宅までもう少しのところ、擦り切れて弱っていたであろう手提げ袋が崩壊。
丸見え状態の山のような無料求人誌を抱えて歩を進めているのを、家内のママ友に見られてしまい、俄かに噂話の主になっていたとか。
 
そんな週明けを数え始めて数回目、とある募集告知を見つけました。
「これだ!」
それは天から静かに目の前に降りてきた、天使の白い指と映りました。
 

3・生き恥との揶揄嘲笑に耐えながら

小さな直方体の囲いの中に綴られていた必要最低限の情報は、こんなだったと記憶しています。
 
 
即戦力急募!ワープロタイピスト選考会
◆月◆日(◆曜)◆時~
会場:◆◆◆
履歴書を持参ください。
参加者全員に全国共通商品券3,000円分を進呈!
 
 
よく知る大阪駅近くの建物、往復徒歩で赴けば、商品券ゲットです。
タッチタイピング(※当時はブライ◆ドタッチと表現されていました)などとは当然無縁でしたが、
「嘲笑なんぞなんのその!お金を頂戴するのは甘くないのが実社会だからな」
形だけの世帯主として肩身が狭かったあの当時、ようやく微額ながらも手渡せそうで、遠足もしくは運動会当日を待つ児童の気分でした。
 
ここからは綴るまでも無い回想録ですが、お察しの通り、当日はこれぞ生き恥。
私以外の参加者はいずれも、秘書歴十分とお見受けする女性でした。
「女の中に男が独り……」
今日では問題であろう、昭和の子ども世代の冷やかし文言が、頭の中でヘビロテ状態で鳴り響いていました。
机上に準備されたパソコンを用い、指示された文章をタイプアップさせられるも、この時の私の所作といえば……以下略。
 
主催者の男性スタッフが、汚物を横目で確かめるかのような一瞥とともに、叩きつけるように商品券を差し出してくださいました。
黙って深々と一礼からそれを握り締め、脱兎の如く会場を後に。
その足で近くの金券ショップに駆け込めば、2,800円くらいの現金が手元に残りました。
 
家内に手渡せることが嬉しくて。
それと同時に時間が経過するにつれ、得体の知れない負の感情に包まれて。
 
今振り返れば、丁度パソコンの一般家庭への普及が加速度を増していた時期でした。
携帯電話もメール送受信限定の小さな白黒画面から、インターネットに接続可能なカラーへと進化を見せていた頃。
プロレベルでデスクトップ型のパソコンを操れる人材の確保が、さまざまなジャンルで急務だったのでしょう。
 

4・厚顔無恥戦法の限界

赤面と奥歯の食いしばりを隠し、同様のイベントに出没すること複数回。
「今の俺にはこれしかできない!法に触れているわけじゃない!笑わば笑え!」
汚物凝視線上等と開き直り、せしめた報酬を現金化する繰り返すこと数ヵ月。
ようやく各債権者との和解(示談)が整い、任意整理と称される債務整理に臨む環境が整いました。
ここから向こう5年あまり、譲歩いただいた返済条件に沿った支払いを完了できなければ、今度こそ問答無用で自己破産宣告が届きます。
机上の論理ではクリアできるはずの金額でしたが、身体を壊すなどのアクシデントなど、一切の猶予は見当たりません。
 
こうした間にも、世の中と時代は刻一刻と変化を重ねていきました。
一時の恥と引き換えに数千円を入手できる、あくまで私的においしい話も影を潜め、定収入を約束してくれる新たな仕事探しも座礁状態。
債務整理に充当すべく切り崩せる貯えも、底をつく寸前との警告が鳴り止まず、経済的危機は何ら改善されていませんでした。
 
気づけば季節は秋本番。
その日も大量に陳列された無料求人誌を、慣れた手際で次々とピックアップ。
そこから踵を返し、黙々と自宅へと歩を進めるなか、冒頭のシーンが私を待っていたのでした。
 

5・同窓生の言葉に驚き戸惑うばかり

中学生当時を懸命に思い返すも、ほとんど会話すら交わした記憶がなかった彼。
互いに生気を忘れ、無意識に肩を落とした姿勢が当たり前になって久しいであろう、中年2人の差し向かい。
目の前の彼は、私に返答の島さえ与えぬ勢いで、時空を超えた話題を声にし続けていました。
 
「オマエは俺にとって、憧れの存在だったよ。キラキラしていてさ……」
なんともこそばゆい限りの、彼が語る記憶の中の私。
ちなみに1970年代前中半当時の私は、こんな中学生でした。
信じる/信じない、は、読者各位に委ねます。
 
右手にギター、左手にテニスのラケットで、教科書は机の中。
成績優秀手前も生徒手帳が定める諸々は、片っ端から無視すなわち校則違反三昧。
下級生に追っかけ(ファンクラブ?)が発生する、教師陣からすれば頭痛の種。
 
「とりわけすごかったのが、オマエの作品だよ」
「はあ?」
「市のコンクールで入選した読書感想文だろ、それから校舎内のどこかには、常にオマエの絵画や工作が展示されていて、卒業文集も別格だったよな……」
彼の記憶の中ではそういうことなのだと黙っていると、こんな驚くべき一言が発せられ、私は目を白黒。
 
「それからオマエのホームページのコラム、あれもずっと読ませてもらっていたんだよ」
先述の事情で開店休業(実質は廃業を余儀なくされた)状態に追い込まれた、趣味を極めたつもりの自店舗のサイトを、閲覧していたと話す彼。 「ど、どうやって見つけたんだよ!?」
「偶然ヒットしたんだけど、直ぐにオマエだろう、ってわかったよ」
 
当時はようやく一般家庭にパソコンの普及が進み、それまでのダイヤル回線から高速通信がシェア争奪戦を始めていた頃。
新規顧客拡大と常連客の意識をつなぎとめる意図で、ブログならぬコラムのページを公式サイト内で更新し続けていました。
それでもやはり、確率的に偶然では説明がつかない、彼が私を見つけた事実。
その理由は当時の彼の境遇と、中学卒業後の歩みに存在していたようでした。
 

6・似て非なる鏡写し

中学卒業後理系の道に進んだ彼は、誰もが知る超有名企業のエンジニアの卵として、周囲が羨む肩書を手に、社会人デビューを果たしたそうです。
名刺に刻まれた所属社名に、周囲の人たちは感服プラス平身低頭。
そんな人生に疑問を抱き始めたタイミングで、一般家庭へのインターネット普及が加速度を増し始めたと、穏やかに話してくれました。
 
「独立して庶民向けのパソコン教室を開業しよう」
奇しくもそのタイミングが、私が独立起業を企てた、21世紀の扉が開くタイミング。
しかしながら超大企業のエリート社員として実社会を歩み続けた彼曰く、
「当時の自分には世の中が見えていなかった」
社会人として培ったつもりの彼のスキルは、個人事業主には不合致だったようでした。
 
心を病みDVに及んでしまい、妻子からは離婚訴訟を突き付けられて係争中。
さらには難病指定の体調不良に見舞われ、高齢の実父を抱えての同居生活。
「俺の母親も姉を連れ、親父の暴力で家を飛び出しているから、遺伝だよな」
気弱男子の見本のような彼の吐露に、この場面でも驚きを禁じ得ませんでした。
 
そんな彼に私も言葉を選び、自身の苦境を包み隠さず伝えました。
この状況は実際に経験した者でなければ、奥深い部分を理解できないと、これは体験から確信しています。
 
「オマエの文章、絶対金になるよ!物書きになれよ!自分にオマエの才能があれば、迷わず挑んでいるよ」
あの日の喫茶店での名刺交換を機に、呆れる頻度で届き続けた、彼からのこんなメッセージ。
純粋なエールなのか、あるいは自らを鼓舞する日課だったのか?
「世の中そんなに甘くないよ。文筆家になりたくてもなれなくて足掻く数多の人たち、オマエも知っているだろ?」
私としては至極当然の答えでした。
 
この時点で私にとっての文章は、あくまで購入して拝読する作品。
卓越した才能を認められる場面に恵まれた作家が綴る、雲の上のありがたい商品。
 
「俺の戯言に金を出せ!って言われたら、誰よりも真っ先に、俺が暴れるぞ!?」
冗談ではなく本気でそう固辞し続けるも、彼の口説き落としは熱を帯びる一方でした。
 

7・この選択あればこそ

「わかったよ!俺の負けだ!それに応募するけど、絶対落選だからな!結果を確かめたなら納得してくれるよな!?」
自身のことをこれだけ高く買ってくれることに対しては、素直に感謝の気持ちで一杯も、怒涛の口説き落としには、正直辟易としていました。
 
・彼を黙らせ納得させるには、落選してみせるしかない。
 
今にして思えば、彼は俺に自身を投影しつつ、未来から射し込む一筋の細い光を手探りしていたのでしょう。
仮に拙作が入選なる奇跡が現実となれば、彼が心密かに企てていた、何らかの一発逆転の賭けに挑むつもりだったのかも?……これもあくまで邪推ですが。
 
公募情報を集めた有料雑誌をわざわざ購入から、
「これ!これならオマエが最優秀賞確実だよ!」
数千文字指定の、とあるKWに基づくエッセイもしくは短編小説が、そのお題目でした。
 
時は年を越えて2007年。
私はようやく定収入が約束された雇用契約に恵まれ、債権者各位との和解条件に基づき、任意整理完了に挑み始めた矢先でした。
体力低下が否めぬ中年の肉体を鞭打ってのダブルワーク、自ずと彼とのメールのやりとりは、後回しが常となっていきました。
 
「結果が出たら必ず報告するから、悪いけどしばらく俺自身の暮らしに専念させてくれないかな」
今にして思えば申し訳ない限りの、このような心無い私からのメールに対し、返信は届きませんでした。
これが彼との最期のやりとりになろうとは、この時は知る由もなく、自身の本音を飲み込んでくれているのだと、深く考えることもありませんでした。
 

8・落選で始まった在宅ライターライフ

「言った通りだろ!?締切から4ヵ月目だけど、主催者からは音沙汰無しだよ。これで納得してくれたよな!?」
義理は果たさねばと久々に彼に送信したこの時点で、私は次のことを正しく理解していませんでした。
 
・文筆作品の公募の審査機関は時に長く、審査結果発表が半年~1年後もザラ。
 
ちなみに彼からの返信は無く、黙って納得してくれたのだと、ここでも勝手な解釈。
2007年のこの時期の私は、債務整理と日々を生きて喰って行くことに、大袈裟でなく全身全霊を注がざるを得ない状況でした。
 
そこから月日が流れ、翌年すなわち2008年の春頃だった、と記憶しています。
大阪梅田の地下街を移動中、ポケット内のガラケーが電話着信を告げました。
見知らぬ発信番号でしたが、条件反射的に電話に出た私が耳にしたのは、公募応募への御礼の言葉に続けて、残念ながら落選との結果通知でした。
 
「わざわざ電話で落選通知とは、この世界は随分律儀なんだろうな」
ところが本題はここからだったらしく、思わぬ問いかけが鼓膜に届きました。
 
 
弊社としてはそちらさまの作品作風に、大変興味を抱いております。
他に何か作品があれば、拝見することは可能ですか?
あるいはこちらの希望に沿う形で、何か書いていただけますか?
弊社規定に沿う額になりますが、もちろん報酬はお約束します。
 
 
「言葉巧みに高額な自費出版に誘うセールスだな!?」
中途半端な関連知識で態度を硬化させてしまうも、よくよく伺えば、そうした連絡ではない雰囲気でした。
さらに補足すれば、こうしたセールスは当然合法的ですが、債務整理真っ只中だった当時の私は、過剰な警戒心が常に前面に出てしまっていました。
 
 
音楽の世界でも、コンテストでは落選も、メジャーデビューからトップミュージシャンになった人物、少なくなかったぞ?
 
 
受話器の向こうの誠実な語り口調に、
「ここから悪行きしたとしても現状がこれだから、どうってことないだろうしな」
出先であることを告げ、仕切り直しでお話いただきたい旨を伝え終えてほどなく、レ経年劣化が隠せぬガラケーの電源が自動的に落ちたことを、今、思い出しました。
 
翌2009年には、拙作が現在とは違う筆名で、ハードカバーの書籍になっていました。
以下、自身の仕事と呼べる作業と拙作については控えますが、端的に申し上げるとすれば、
 
・夢か現実か判断がつかずも、無我夢中一生懸命に対峙の,直近十数年でした。
 
こうして分相応に雨露を凌ぎ、空腹に涙することもなく、この記事を綴ることができている事実が、何よりの証拠でしょう。
 
ちなみに2013年には、先述の債務整理を完了できました。
自己破産以外あり得ない、と声を揃えた法律の専門家各位に、自分なりのオトシマエをつけることが叶いましたが、慢心は禁物です。
『喪が明けた』なる隠語があるそうですが、近年はかつて多大なるご迷惑をおかけした金融機関から、
「ぜひ当方でお金を借りてください」
そんなご案内を丁重にご辞退する場面も散見され、どうやら社会的信用も回復できたようです。
 
2016年秋には年齢的にも人生最後であろう、外勤を退職。
そこから現在まで、物を綴り五線譜におたまじゃくしを並べて奏でることで、経済社会に生きる場所を与えていただけています。
2002年夏に起業した己が個人事業体、所轄税務署にはその存在を認識いただけています。
「潰れても、潰してもいないぞ!」
声にするつもりこそありませんが、秘かな誇りであり、明日への原動力です。
 

あれから月日が流れ、2023年某月木曜の撮影。
最新冊子補充から4日目も、残量は豊富 & 照明も落とされていました。
紙媒体の求人市場の終焉を、あらためて感じています。


終章・逃げず&断らず&後回しにせず

ここまでお目通しいただき、ありがとうございます。
退屈だったとすれば、お詫び申し上げることしかできず、ごめんなさい。
 
これは念押しになりますが、同記事は自画自賛でも、絶体絶命からの復帰体験談でもありません。
人それぞれの長い人生、これくらいのアップダウンを、誰もが過ごしていることでしょう。
「小さな遊園地の古い木製ジェット・コースターみたいな、これまでの歩みだったよ」
天命を知る年齢から還暦を見送った今、これくらいの大口未満、許していただけるでしょうか?
 
2005年夏のあの日、昨今話題の熱中症だったのか、帰路の体調はイマイチでした。
片道の電車賃百数十円で、冷房の効いた車輛に揺られて数分を選ぼうと、券売機前で足を止めていました。
それでも初志貫徹と、淀川橋梁の東側歩道を北へと進んだからこそ、この出会いに恵まれました。
 
・恥を承知で商品券目当ての失礼なエントリーを続けていなかったら?
・あの日自分に甘く、電車での帰宅を選択していたら?
・彼があれだけ背中を押してくれなかったら&公募投稿を拒んでいたとしたら?
 
その他今日に繋がるどれひとつが欠落したとしても、今の自分はあり得ません。

 
#あの選択をしたから

 
己が基本理念とまでは申せませんが、こんなシンプルなスタンスが不変です。
 
・迷ったらGO!引っかかったらWAIT!
 
諸々が土俵際だった当時、私には引っかかっている余裕も権利も無かったようです。
止まれば次の瞬間押し出され、生きる土俵を割ってしまう瀬戸際でした。
 
人間はそう簡単にくたばらない・くたばれないものです。
ピンチの際にはすべてに対し、臆病になって当然です。
だからこそ自らに勢いをつけて、踏み出し踏み切っていただければ、と考えます。
 
昭和の漫才で、こんなネタがあったことを思い出しました。
「どうしてあんな金属の塊の飛行機が、空を飛べるのか、君は知っているか?」
「それはどうのこうの……」
「違う違う!滑走路を時速数百キロで滑走して、目の前は海となれば、飛び上がる以外に選択肢が無いからだ!」
お気に入りのこの話、ご記憶の読者もいらっしゃるかと思います。
 
 
それから最後の最後になりましたが、この記事に登場してくれた同級生の彼は、その後体調が悪化。
令和を待たずに空へと旅立たれています。
その後妻子との関係もそれなりに修復され、悲願だったお嬢さんとの対面も叶ったと、共通の同窓生から報告を受けていました。
 
 
オマエの分まで生きるなどと、言えた身分でもなければ、そのつもりもないから。
いずれ俺もそっちに招かれる日が訪れるけど、それは自身では決められないから。
弱視が進んでよく見えないから、そっちの世界で迷子の俺を見かけたなら、あの時みたく、恐る恐る声をかけてくれよな。
「〇〇……さん?〇〇だよな!?俺、俺だよ」
そしたら俺様の直筆サイン入りの書籍、一冊プレゼントしてやるからさ。
キラキラ輝いている肖像権の問題があるから、一緒の写真撮影はNGだけどな。
 
ヒット曲やベストセラーが思い浮かばない、それでもそれぞれの土俵で喰っているプロフェッショナルは、星の数ほど。
少しでも油断すれば居場所を奪われてしまう、熾烈な椅子取りゲームがエンドレス。
喜怒哀楽胸一杯以上で溢れ出る、こんな真剣勝負の毎日、厳しいけれど楽しいぜ!
 
 
これ、ホロリと笑っていただきたい、同拙記事の結論です。
 

淀川橋梁 今は電車で がたんごとん

 
(※本文総文字数=9570)


9/5/2023 (TUE) 

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