『世界のムナカタ』はどこからきた?棟方志功を【アーティストトレース】
突然ですが私は木版画が大好きです!
日本人なら大抵小学生の美術の時に版画の授業があったでしょう。ちなみに紙に刷るときに使うおせんべいみたいなアレは「ばれん」です。
版画は板を削るのも楽しいのですが、彫り上がった板に墨や絵の具を塗り、紙を当てて刷った時の達成感がたまりません。
そして刷り上がった版画も、どことなく素朴で味があるんですよね…
さて、版画といえば、日本では版画家・棟方志功が有名です。
どれくらい有名かというと、『世界のムナカタ』と称されるだけあって海外でも有名です。
『世界の〇〇』って『世界のクロサワ』以外だと何かあったっけ。
『世界のナベアツ』(現在は桂三度に改名)とか『世界の山ちゃん』がいるけど自称『世界の〇〇』でしょ。
だから棟方志功ってすごい人だったんだなぁと改めて思いました。
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私は小学生か中学生の時に、母親と棟方志功展に行ったことがあります。
母親は写実絵画的なものが好きだったこともあり、棟方志功のあの墨が黒くうごめいているというか、どすぐろいパワーにやられちゃったようで体調が悪くなっていたことを覚えています。
私は特に体調が悪くなることもなく、その後大学時代に版画研究会に入って木版画の多色刷りにハマるくらい版画が好きになりました。
さて先日、東京国立近代美術館にて『生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』を観に行ってきました。
「青森が生んだ世界的な版画家」というイメージくらいしかなかったのですが、活動の場は青森県以外もあったということにびっくり。
せっかくの機会なので棟方についてもっと詳しく知りたいと思い『アーティストトレース』を久しぶりにやってみました!
アーティストの戦略や思考をフレームワークを使って読み解いていこうというのがアーティストトレースです。
私は棟方作品は好きですが母親は体調悪くなるくらい苦手みたいでしたし、万人にウケる作家ではなかったと思うのですが、批判などあったのでしょうか。
棟方は青森県の出身なので東北で活動しているイメージなのですが、彼はどうやって作品を発信していたのでしょうか?活動を支援したパトロンはいたのか?気になります。
では、Wikipediaやweb記事、書籍などを参照しながらみていきましょう。
はじめに:棟方志功の概要
棟方志功といえば牛乳瓶底メガネのおじさん。板を舐めるように顔を近づけて彫るスタイルがお馴染みです。
もともと洋画をやっていた棟方。ゴッホの向日葵の絵を見て感銘を受け「日本のゴッホになる」と宣言していたそう。
帝展入選を目指して上京するも落選が続いていたなか、川上 澄生に影響を受け、版画に目覚めます。
ごりごりに影響されてますね!
んで、afterがコチラ。この作風の変化がめっちゃ気になります。
憧れのゴッホが日本の浮世絵が好きだということも、版画家に転身した理由のひとつのようです。油絵では西洋のアーティストには敵わないが、海外でも高く評価されている木版画でなら世界で戦える、と考えたのでしょう。
「白と黒の絶対比」に美しさを見出した棟方は「版画こそ日本の芸術だ!」という言葉を残しています。
民芸運動や仏教との出会いも作風に影響を与えているようですね。
棟方はダイナミックな構図&文字を画面に入れ込んだスタイルを確立していきます。
ほかにも代表作『二菩薩釈迦十大弟子』『女人観世音板画巻』『華狩頌』『弁財天妃の柵』などがあります。
PEST分析:棟方志功が活動していた時代
棟方の作風の大きく影響を与えた当時の外部環境を見ていきましょう。
民藝運動
民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。
「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦と棟方は、1936年の国画会展にて出会いました。
佐藤一英の長編詩「大和し美し」に感動した棟方は、この詩を全20柵墨刷り一色の版画巻にして国画会展に出品します。
浜田庄司と共に審査員として招かれていた柳は、その異次元の才能にあっと驚きます。
柳を生涯の師として仰いでいた棟方。黒一色で仕上げる棟方のスタイルに黒色で摺り上げた版画の裏面に絵の具を染み込ませて彩色する「裏彩色(うらざいしき)」を用いるようになったのも柳の助言からでした。
この出会いが『世界のムナカタ』の始まりだったとっても過言ではないでしょう。
第二次世界大戦
棟方が36歳のとき第二次世界大戦が起きています。すでに版画家として活動している時期でした。
いよいよ戦争が激しくなるなか棟方は1945年から富山県南砺市(旧福光町)に疎開します。42歳の時です。なぜ疎開先は富山だったのでしょう?
妻子をかかえ「とにかく生きのびなければ」と考えていた棟方には疎開先を選んでいる場合ではなかったのですが、「故郷の青森で恥をさらしたくない」という思いがあったようです。
富山県に疎開した理由としては、以前から交流のあった人物に疎開先として紹介されたからですが、この富山県は棟方にとって特別な場所でした。
過去の戦前に遡りますが、21歳の時に画家を目指して上京した棟方は29歳で版画家に転身。そして35歳の時の新文展にて版画で官展初の特選となります。
この時の作品が「善知鳥(うとう)」。善知鳥は北国に生息する海鳥のことです。
青森である故郷に善知鳥神社というのがあり、棟方は自身の結婚式をこの神社で行っています。
棟方にとってゆかりのあるこの「善知鳥」。これと同じタイトルがついた能の演目に惚れ込み、彼はそれを題材に版画作品を作りました。そしてこの能の舞台になっていたのが富山県の立山なのです。
つまり棟方は立山に非常に強い憧れを持っていたというわけです。
憧れの地で6年ほど過ごした棟方。この地へ疎開した画家、歌人、文学者など、さまざまな芸術家との交遊の輪も広がり、地域文化の発展にも貢献したそうです。
また、宗像は仏教を題材にした作品を多く作ってきましたが、この地では浄土真宗の僧侶との交流を通して、より宗教観を深めたと言われています。
余談ですが36歳の時に文殊菩薩・普賢菩薩と、釈迦の10人の高弟の姿を彫った『二菩薩釈迦十大弟子』。これは棟方の最高傑作と言われていて、のちにサンパウロ・ビエンナーレなどの国際的な美術展で最高賞を受賞する作品ですが、この作品は戦前に作られたものでした。
戦時中に福光町に板木を持ち込むことができて東京大空襲を回避できた奇跡の作品です。
青森県出身のアーティストというイメージが強かった棟方ですが、富山県という地も『世界のムナカタ』にとって重要な土地だったんですね。
マーケティングミックス:棟方志功のマーケティング戦略
版画の巨匠『世界のムナカタ』のマーケティング戦略を4P分析してみましょう。
製品(Product)
版画や肉筆画の作品を制作していた棟方ですが、自身の作品の呼び方に強い想いが込められています。
版画を「版」ではなく「板」と書いて「板画(はんが)」と呼んだのは、板が生まれた性質を大事に扱い、木の魂をじかに生み出したいという想いがありました。
作品名は「○○の柵(さく)」と名付けており、寺社に納めるお札のごとく願いを込めて制作した作品という意味だそうです。
ちなみに自身の描く肉筆画は「倭画(やまとえ)」と呼び、「○○の図」という題名をつけています。
棟方は版木を無駄に使わないことを信条にしていたこともあり、画面いっぱいに広がるダイナミックな構図に加え、文字を画面に入れ込んだ棟方独自のスタイルが特徴的です。
価格(Price)/流通(Place)
芸術作品ですから具体的な金額は何とも言えないんですけど… 作品の金額にまつわるエピソードをひとつ。
棟方が国画会展に出品した『大和し美わし』が柳宗悦の目に止まったというエピソードは先に述べましたが、
柳は『大和し美わし』を法外な値段にもかかわらず購入したそうです。『大和し美わし』は落選作品だったので、さすがに棟方が恐縮して半額の350円にしたようですが…
ちなみにこのころの1円は、現在の千円から3千円くらいだったそうです。
海外にも棟方の愛好家は多く、コレクターもいるみたいですね。
木版画は絵画と違って『1点限り』ではなく複数印刷ができますので、墨付きのよさや紙の状態などで評価額は変わるようですがオークションや画廊にも多数流通しています。
ちなみに棟方は組作品や大画面の作品が多いイメージですが、生涯を通じて小品も多数制作していたそうです。
また、製品(Product)の方で少し触れましたが、棟方は板画だけでなく倭画と呼ばれる肉筆画や書、陶器など作品も生み出しています。昔は油彩画も描いていましたね。
プロモーション(Promotion)
幼少の頃から「世界一になってやる」と宣言していた棟方。小学校の時のあだ名は「セカイイチ」だったそうです。
そんな棟方が、戦後は活動の場を海外にも広げていきます。
疎開先の富山県福光町から東京都杉並区荻窪に移ったあと、49歳の時にスイス・ルガノ版画展に『女人観世音板画巻』を出品し、日本人として初の優秀賞を受賞します。
その後52歳の時のサンパウロ・ビエンナーレでは版画部門最高賞、翌年のヴェネツィア・ビエンナーレの版画部門で日本人として初の国際版画大賞を受賞し、国際的な評価を確立します。
渡米・渡欧も行い個展や板画の講義を行っていました。
海外での活躍に比べ日本での受賞は10年後の朝日賞まで全くなく、この頃の国内での評価はイマイチだったようです。独特の作風が画壇の美意識に合わなかったと言われています。
1960年代にはパブリックアートを数多く制作し、公共の場所で一般人の目を楽しませています。
倉敷国際ホテルのロビー壁画『大世界の柵「坤」-人類より神々へ』。この巨大な作品は、大き過ぎたため2段に分けてホテルの2階と3階の吹き抜けに飾られています。
この6年後にこの版木の裏を使って『大世界の柵「乾」ー神々より人類へ』を作成し、大阪万博の日本民芸館に展示しました。アンサー壁画かな。
郷土青森の発展を祈願して制作された『花矢の柵』は、1961年に青森県庁舎の玄関ロビーに展示されています。
さて、棟方作品といえば真っ白なお肌でモチモチふくよかな女性の作品がありますね。胸から上の女性の顔がモチーフの「大首絵」は、江戸浮世絵の様式のひとつです。
谷崎潤一郎の小説『鍵』の挿絵を担当した棟方。1965年に59点もの板画を制作しましたが、そのなかの『大首の柵』は棟方の大首絵の代表作となっています。流し目の女性の真っ白なお肌が印象的ですね。印刷物になることを想定し、白黒のバランスをとっているそうです。
1970年に文化勲章を受賞して以降、こういった美人大首絵を多く制作していきます。
挿絵やパッケージなどの商業デザインに採用されることが多くなり、大衆の目にも触れる機会が急増し棟方の人気が日本にも広がって行くことになります。
棟方は依頼されたら気前よくデザインを引き受けていたそうです。「風が語りかけます…『うまい、うますぎる』」のCMでお馴染みの『十万石まんじゅう」の包装紙も棟方が手がけています。
棟方の作風は地方の風土とマッチしやすいでしょうね。しかも『セカイのムナカタ』が手がけたパッケージの和菓子、めちゃくちゃ「銘菓」としての箔がつきそう。
棟方を支えた人たち
国際的に評価されてからは海外で活動したりインドを旅しながら作品への着想を得ていたようですが、日本全国を旅して宿代代わりに作品を提供していた時期もあったようです。
戦争もありましたし、貧しさと戦いながらアーティストとして活動していたのだと思いますが、棟方を支援してくれたのはどんな人たちだったのでしょうか。
妻のチヤ
四人の子供を育てながら、極度に近眼だった夫をサポートしていたチヤ。
サンパウロ・ビエンナーレとヴェネ チア・ヴィエンナーレの両方に出品された 『二菩薩釈迦十大弟子』の版木を東京から疎開先の富山県福光町に発送するために奔走したのが彼女です。
棟方志功後援会
戦前は浜田庄司が棟方の後援会をつくり不遇の棟方の精神・物質的に支えていました。そのメンバーには泉龍寺と源光寺という二つの寺の住職、大原美術館長などがいたそうです。
また、他のメンバーには「特に芸術には関心はないけど、棟方のことが放っておけないという」近所の人たちもいたそうです。棟方は人懐っこく、自分が貧しいのに他人の世話好きな性格だったようですから、まわりから愛されていたのでしょうね。
おわりに
今回は富山や東京時代の活動を中心に調べていましたが、棟方は生まれ故郷の青森を人一倍愛し、凧絵やねぶた等の文化や青森の自然に心をよせていたそうです。
棟方は大のねぶた愛好家で、開催時期にはほぼ毎年帰省して祭りに参加していました。ねぶたの色彩にも影響を受け、作品の題材にも採り上げています。
青森市にはゴッホと同じ形に作られた棟方のお墓も含め、棟方とゆかりのある地がたくさんあるんです。
棟方は弱視でありながら、まわり人や環境に大きく刺激を受けてその独自のスタイルを作り出してきたんですね。
「一旦アイデアが浮かんでくると、何かに取り憑つかれたように猛然たる速度と凝集した力で」板木を彫り上げていたそうです。
小さい作品から巨大な壁画まで、棟方はその異様な集中力で次々とアイデアをかたちにして、生涯で1万点以上の作品を生み出しました。
決して上手いとは言えないんだけど、癖になる棟方の作品。圧倒的なパワーをガンガン押し付けてこられたような感覚になるんですよね。観たことがない方はいちど実際に観てみてください!
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