コンクリートマーキング

 アスファルトが剥がれて半分くらい土が露わになっている駐車場、前は銭湯があったが、かれこれ5年以上も雑草が群生している空き地、テナント募集中の空き店舗前。このような人が見向きをしなくなった土地がコンクリートジャングルの都内で犬の散歩をするとき、どれほど役に立ったことか。
 犬は住宅地に立っている電柱を伝言板として、当然のように他の犬のマーキングに自分のマーキングを重ねる。用を足す独特の挨拶で自分の存在をアピールするのだ。ところが、電柱近くの住人にとって、それは公共物とはいえ放っておけない所有物のような感覚があるらしく、その行動を快く思う住人はいない。犬のマーキング中に、その住人と遭遇してしまうと、犬を連れている人はマナーを求められ、犬のマーキングを水で流し、掃除をしているアピールをせざるを得ない。しかし、アピールは所詮アピールであって、アンモニア成分を電柱から完全に消し去るのは素人には無理なことだ。水を掛けたところで電柱の根元は強いアンモニア成分によって朽ちてゆく。飼い主が振りかけているのは水ではなく、ただの気遣いである。電柱前の住人も犬の飼い主も、気持ちだけの洗浄効果について確かめることはない。ただ犬のマーキングを見て見ぬ振りをして過ごしている。
 一方で住宅地に気遣いの無駄遣いをせずに済む場所もある。私の知る限り、犬の散歩コースに駐車場は2箇所、空き地も2箇所、空き店舗は1箇所、そして空き家は3箇所あった。コンクリートやアスファルトに囲まれた中で突如として現れる、これらのマーキングのオアシスでは、飼い主の気持ち次第で水をかけるか、土に還すか出来る。それぞれの場所でのマーキングはもちろん、我が家の犬はなぜか草の上でしか大きい用を足さないので、管理すらされていない空き地や駐車場の隅の雑草の上で体を丸めて、いつも申し訳なさげに用を足していた。静岡県の長閑なところから引き取った我が家の犬は、都内に自然を求めていたのかもしれない。
 そんな我が家の犬は、何故か今年に入ってから、急に道路の真ん中で用を足すようになった。柔らかく土臭い草の上でもなければ、隅っこでもない、硬く真っ黒なアスファルトの道路の真ん中で、相変わらず体を丸め、申し訳なさげに用を足すのだった。
 原因は、いつもの駐車場と空き地がその平坦で簡単な姿をあっという間に変えていったからだった。駐車場はブロック塀で土地を2つに分けた後、二階建ての若いファミリー向けの建売の家が二棟建った。そして空き店舗1箇所と、そこから500メートル先の空き地1箇所はどちらも保育園に変わっていった。街が若くなる根拠が建っていったのと同時に、犬のマーキングオアシスがたった数ヶ月で3箇所も無くなった。
 それでも、いつもの空き家はいつもの通り、ツタの絡んで開かなくなった扉を締め、草や木の生えすぎで歪んだ門を閉じ、文字の消えかかった表札を掲げて、その場で佇んでいた。人が住む家では呼吸のようにドアを開け閉めするが、この空き家は手放された時のまま息を止めて、誰にも使われないまま老い続けていた。
 草の上でしか大きい用をしない我が家の犬はトイレ場所に困り、お尻を膨らませたまま、おろおろと歩き回り、最終的にパニック状態で道路の真ん中に、申し訳なさげに妥協という用を足していた。何処にも収まれない犬の姿を見て、私は「用が足せない、日本死ね」とツイートするか悩みながら犬との散歩を続けた。
 また暫く歩いていると、生い茂る草木の隙間から燻んだ白い壁と赤いレンガ、青い瓦屋根の覗く空き家に突き当たり、私は足を止めた。その空き家の姿は誰も使わなくなった地方の父の実家に一瞬だけ重なったが、違うものだった。若い芽を育てようと耕すのは自然の残る地方ではなく、コンクリートの隙間ばかりなのかもしれない。
 道路の真ん中で用を足すようになったのは、犬にとって道路の真ん中だけが唯一、変わらずに平坦であり続けるからなのか。我が家の犬が、散歩をしているうちにもう足す用がなくなろうと、片脚をあげて最後の一滴まで一生懸命に絞り出しているのは、小便ではなく意地なのかもしれない。


学部3年 関万由子