引き出しの中の後悔

何かとても大きく心が動いた日には、ああこの瞬間は死ぬまでずっと忘れることはないんだろうなと、ふと思う。日常の中で忘れていても、似たにおいや温度、色や音によってふいに記憶の引き出しから現れる、そんな思い出たちをすでに数え切れないほど隠し持っている気がする。楽しい思い出ばかりではない。涙が止まらなかったことも、歯を食いしばったことも、そして後悔していることも。とある老人ホームの風景を描いたベルギーのダンスカンパニーの公演『ファーザー』は、死を待つ老人が妄想した世界に観客を迷い込ませる。

世田谷パブリックシアターで先月上演された、日本・ベルギー友好150周年関連事業 ダンスカンパニー ピーピング・トムの『ファーザー』を観劇した。
ファーザーは家族にも見放され、ひとりぼっちで空想の世界に逃げ込んでいる父。だれの、ということではない、概念としての父が、妄想の中で過去の負の記憶を塗り替え、あるいは抹消し、新たな人生を描き直そうと奮闘する姿を描く。
公演にはカンパニーのダンサーたちに加え、上演の現地で募ったエキストラのシニアキャスト十数名が出演する。ピーピング・トムのダンサーたちは異常なまでの高い身体能力と驚異的な柔軟性で縦横無尽に舞台上を動き回る。歩いていたかと思えば数歩進んだあたりでマット運動のような前転をはじめたり、長い髪を振り回して踊り狂ったり、そんなとても奇妙な動きをする。それも短いフレーズではない。まともな動作をしたかと思うとくねくねと踊りだし、ふっと立ち直ったと思ったら次の瞬間から激しく痙攣しだすの繰り返しで、最後までそんな調子だ。すごく変で、怖いくらいよく動く。対してシニアキャストたちは、老人としての動きをそのままに、老人の役として出演している。歩くことすらゆっくりとぎこちなく、ファーザーのピアノ演奏に向けられた歓声も、細く、しわがれていて、施設の職員役である若いダンサーたちの生命力溢れる様子とは対照的だ。あまりにダンサーの動きが人間離れしているためか、老人の筋力がないがゆえの弱々しい動きも何か所作のように思えてくる。役者が持つ身体の可能性の範囲を見つめ、特性を生かす演出がこの作品の魅力を向上させる。得意なことをしている人は魅力的だし、できないことに直面している姿は強くその人の身体性を感じる。役者その人が感じられたとき、語られている物語以前にそこには舞台があり、俳優が存在している事実が顕現化する。繰り返しの稽古によって習得したのではない、演者がすでに持っていた老人としての所作が、そのまま舞台上に現れて成立している。そのことがこの上演芸術の根幹を成していることに気づく。

『ファーザー』は、数年前にパリで行われた高齢者向けのワークショップが発端となって生まれた作品だという。そのときのテーマは「後悔」。参加者たちの十人十色の人生と罪責感に触れた時の感動からこの作品は生まれた。老いて、動作がぎこちなくなるほど生きれば、誰しも後悔の残る思い出のひとつも持っているだろう。老人ホームで、そこで知り合った友人たちと私も思い出話をする日がくるのだろうか。過去の思い出、と笑い話にして、死ぬ前に少しでも心を軽くしようとするのだろうか。ファーザーが見ていた妄想は未来で自分がたどる道かもしれない。
そう気づいた途端、コミカルな演出も、滑稽なダンスも、老人たちのか細い歓声も、急に強烈な現実味を帯びた。


学部4年 片岡真優