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一転して二転して

映画を一番見ていたのは大学生時代。当時の彼氏と初めてのデートも映画だった。

その時に見た映画は「セブン」。
なんだかんだで忘れられない映画と思い出である。いろんな意味で。


推理小説・SF作品・猟奇殺人モノが大好物だった。インターネットという文明の利器を手にしてからは、ブラクラに怯えながらもそんなかんじのサイトを夜な夜な回る青春時代を過ごしていたワタシ。だけど、ある時を境にピタリとそういったコンテンツを追わなくなった。

その転機とはそう。出産である。

子供を産んだ後から結構かなりしばらくの間、その大好物のコンテンツ全てからちょっと距離を置くようになった。

本能的なものなのか、それとも自分が命を生み出したという事実により人間の命というものの重さが想像できる範囲をはるかに超えるくらい重たくなってしまったからなのか。

そういう物語や映像を見るのが「ツライ」と感じるようになっていた。

どこがどうツライのか。そこまで言葉として落とし込むことは出来ないのだけど、とにかく目をそむけたくなる衝動がありえないほど強くでてしまう。今までなら目を凝らして少しでも見よう見ようと思ったはずの情報にも関わらず。

ふにふにと頼りない甘いニオイのする赤子の横で転がりながら、テレビのロードショー的なものを見ながらそんな自分に気がついた時、ちょっとびっくりした。
その時は「こんなコンテンツを子の目に移してはいけない」という母性からだったのかな。と思ったのだけど、別の日に子と別室にいる状態でも同じような感覚になったので、そういうものとはそれほど関係はなかったのかもしれない。

だとすると理由は何だろう。

作品中で殺されてしまう人間が『我が子だったら』と無意識に置き換えてしまっていたのだろうか。いや、それは違う。作品の空気の中にはワタシにとって身近なリアルな人間は存在しない。となるとなんだろう。
ああ、そうか。「作中で死んでしまう人間を生み育てた立場の人間」に自分を置いてしまっていたのか。

と、書いているうちにそう結論付いてしまったけど、なんておこがましいんだろう。いや、おこがましいというよりは、頭がいっちゃってて我ながら気持ち悪い。なんなんだその考えは。意味がわからない。

とはいえ、この気持ち悪い意味不明な考えが一番しっくりくるような気がするので、ワタシの中ではそういうことだったのだろう。納得はしたけれど理解は出来ていない。いや、したくないよね、こんなもの。


月日が流れていくうちに、そんな感じなワタシにまたしても転機が訪れた。

過去大好物であり、一時期その存在すら感じたくなかったコンテンツが、またしても大好物に返り咲いたのだ。

きっかけはなんだろうと考えてみた。

「この日のコレがあったから!」というような明確なものは見つからなかったけど、「自分の終わりというものがぼんやりとでも見え、感じるようになってきたから」かもしれないと思い至った。

『目の前にある絶対に消えてなくなって欲しくないもの』が消えてしまわないように。
と、影響なんてあるはずはないとは頭ではわかっていながらも、触れてしまう事でその可能性ができてしまう。現実世界に持ち込まれてしまうかもしれないという恐怖。そういったものから。可能性のある物語から、無意識であれ意識的であれ必死に距離をとってきた。
それが『いつかは消えてなくなってしまう自分自身』にとって、そんな物語から距離をとろうがとるまいが、何一つとして影響がないことに気がついてしまった。いや、気付いていたけれど、理屈では割り切れない粘着力で自分自身からスッパリと切り離せなかったものの存在、状況を受け入れ、脅迫的な考えから少し距離を置くことができた。

というかなんというか。

もちろん、物語の世界で起こる事件や事故は身近なリアルでは起こってほしくはない。自分を含め、現実世界の人みんな、ツラい目、しんどい目にはあってほしくない。
しかし実際のワタシの心は残虐でグロテスクなもの。現実世界ではありえないような出来事。救いようのない物語。といった、相反するそういうものを欲している。

誰一人傷つけることなくその見苦しい欲望を満たせるもの。それがワタシにとっての映画。

文章を読むことでは得られない、自らの想像力を超えた映像はとても怖くて美しい。そして、その現実ではない現実の世界の中で誰かの人生を、終わりを、絶望を見届けられる幸せ。
そんな映画というものに癒され、満たされてきたワタシはこれからも映画によって救われていくのだろうなあ。


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