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鳴く鳥も鳴かない鳥もみんな鳥(2299文字)

あるnoterさんが織田信長についての記事を上げていて、連想的に例の3句を思い出した。

・鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

信長の作とされている。実際は後世の人が、信長らしさを表す句として作ったんじゃないかと思うけど。

・鳴かぬなら鳴かしてみしょうホトトギス

こちらは豊臣秀吉の句ということになっている。

そして、

・鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

こちらが徳川家康の句。

さて僕は、学童期にこの3句を知りこう思った。

家康ってば、なんて怠け者なんだろう?

解決すべき問題なり人間関係なりがそこにあり、ラチがあかない! ということになったとき、信長は「斬り捨てる」とし、秀吉は「創意工夫で解決しよう」とし、しかるに家康は「ただ時を待つ」としたわけで。

少年時代の僕にとって家康の姿勢は、実にカッコ悪く思えた。

信長の、

・鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

を、あひろ少年は、

・鳴かぬなら斬ってしまおうホトトギス

と覚えていたのだが、

この凄まじい決断力というか自分本意さというか、ともあれ猛々しいさまがカッコよく思えて、鳴かない鳥ならバッサリと斬り捨ててしまうことが潔いことだと感じていた。

オレの望むようにせよ、さもなくば斬る! みたいな^^;

しかし、あひろ少年も、

歳を重ねるごとに気が付いてゆく。

斬ってしまうとそのあとに、なんともいえない空しさが漂うことに。

で、創意工夫を覚えた。

・鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス

そんなふうに覚えていた句を実践したわけである。

知的に企画し、根回しをして、『北風と太陽』的にいうなら太陽なやり方で旅人の上着を脱がせること、そうやって思いを遂げること。それこそができる人のふるまいである、だなんて考えるに至った。

状況や相手を、能動的にコントロールすることで結果を出そうとしたわけだ。

この「能動的に」というのが大事に思われた。

家康の「待つ」という構えは、「受動的」であるがゆえにやはり好きになれなかった。

しかし、最近思うのである。

成らぬなら、為すのではなく、成るを待つことこそが肝要なのではないかと。

能動的に働きかけて状況や相手を変えることは、自らの思いを遂げるためには有効であるけれどしかし自然ではない。無理がある。

無理を通すと何かが歪む。

その場で利益は得られても、生じた歪みが時間差で新たな問題を生み出しかねない。

状況を矯正したり、相手を導くことは、状況や相手に無理を強いることになるんじゃなかろうか?

それに、と思う。

長く生きているとわかってくるのだが、

世の中には、足掻いても足掻いても時が来るまではどうにも解決できない問題がある。

そしてそういう難問も逆に、時の至りさえすればあっさりと解消してしまったりもする。

それを知り僕は思うのだ。

月は満たすものではない。満ちるものなのだ。

(↑これは、あひろちゃんによる格言である^^;)

三日月を満月にしようとどんなに工夫をしてもそれは叶わない。

三日月は、ただ時を待つことによってしか満月にならない。

物事にはそれの「成る時」というものがある。

ホトトギスは漢字で表すと「時鳥」である。時を告げる鳥。

これが鳴くのは時が到来したときだ。

鳴かないからといって斬ってしまえばそれでお仕舞い。

鳴かないからといって知恵を働かせて鳴かせようと試みても、鳴かないものは鳴かないのである。

風に吹かれて待ちながら、波の来たりし時に波にのる。

これが無理のない、自然を受け入れた対処であろうと近頃はもっぱらそんな構えだ。

もっとも若きビジネスマンが、上司の与えた課題に対して「時を待とう」などとほざいて泰然としていたら、まあ上司は「斬ってしまおう」^^;となるだろうなあ、そりゃ。

人事を尽くさずに天命を待っちゃいけないのである^^;

「チャンスを待つようじゃ勝負に負ける」という考え方は、ビジネスシーンにおいての一面の真理なのかもしれない。

しかし、人生はビジネスじゃない。

機運、というものに万事が支配されていることを知るのは大人の智恵であろう。

信長に憧れ、秀吉を生き、家康に辿り着くのは自然な成長であるように思われる。

人事を尽くしたらもう、待つしかないってことかなあ。

ところで、この3句の続きみたいな句を作った人がいるようだ。

松下幸之助である。

・鳴かぬならそれもまたよしホトトギス

だそうである。

斬りもしないし、鳴かせようと企みもしない。そして、鳴くのを期待して「待つ」ことすらしない。

鳴かない鳥が鳴かないことを、ただありのままに受け止めて何も望まないということか?

・鳴かぬならあきらめちゃいましょホトトギス

みたいな^^;?

違うだろう。

諦念を説いているのではなく、全肯定を表しているように僕の耳には響く。

それもまたよし。

というのは肯定的な評価であろう。

鳴かない鳥は、鳴かないでいることが趣きなのだ。価値なのだ。

というふうに、こちらの「鳴く鳥が欲しい」という価値観の方をむしろ修正し「鳴かない鳥の価値」に着目する。

すべてはそれでよろしい、というポジティブにして受容的な楽観主義を感じる。

なるほど、さすがは松下幸之助翁である。

自我を滅却して涅槃に入り掛かってるレベルの達観であるかなあ。

――とりあえず僕は、時を肯定的に待とう。そう思う。

じりじりと焦るみたいに、堪え忍ぶみたいに待つのではなく、月が三日月のまんまならそれもまたよしと肯定しつつ、しかし円満に至る時を、静かに、黙して、ただ信じて生きよう。

三日月もまたよし。けれども月は、よくもあしくもなくただまた満ちるということか。

三日月の時は三日月を愛でて、満月の時は満月を愛でればよいのであるな。

時を愛でる。

鳴く鳥も鳴かない鳥もみんな鳥。


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