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星野源「うちで踊ろう(大晦日)」に寄せて。音楽で世界は変えられない、けれど

星野源が好き

ご多分にもれず星野源が好き。彼の歌や言葉やパフォーマンスを見聞きするたび、星野源はやっぱりずるい、自分も早く星野源になりたい、と思う。そんな人も少なくないんじゃないだろうか。私はそのひとりだ。

彼の楽曲はストリーミング配信に対応しているし、彼の文章は主たるエッセイ本として既に4冊出版されていて、うち3冊は文庫化までされている。とっつきやすいそれらに触れるだけでも、彼の人となりはよくわかる。そこまで手を伸ばさなくても、公式SNS や様々なインタビュー記事、各種媒体からでもじゅうぶんに伺える。そうして思うのだ、

こんなにも努力家な根暗がいるか。
こんなにも愛されるスケベがいるか。
こんなにも信念を貫くアーティストがいるか。

もちろん一人の人間としての彼について、知らないことはたくさんある。芸能人だから、隠している側面もいっぱいあるだろう。有名になるにつれ変わった部分も、失った要素も、もしかしたらあるのかもしれない。

それでも彼のことを、見えている範囲だけだとしたって過去も今も含めて、好きだし応援している。羨ましくてたまらないけど、そのうえでしっかりと尊敬している。


アマチュアとはいえ、私も創作を志す身だ。かれこれ5〜6年、文章を書いたり写真を撮ったり展示を催したりしている。けれどいつまでたってもやりたいことはやれないし、つくりたいものはつくれない。だとしても指を咥えて見ているだけでは何も変わらない。せめてできることをしよう。できないことを減らしていこう。

そうやって手を動かす動力にすら、彼の活躍はなってしまう。なぜなら彼は努力の人だから。

成功の象徴よろしく圧倒的に君臨し、こちらのやる気を失わせるのではなくむしろ奮い立たせてくれるから、やっぱり星野源はずるい。がんばったら近づけるかもしれない。真似てみたら自分だって何者かになれるかもしれない。そう思わせてしまうのって、たまらなくずるくて、心底かっこいい。


紅白に、星野源が、出る

さてそんな星野源が、紅白歌合戦に出演すると知って喜んだ。逆に出ないわけがない、とは思っていたが、正式な情報を手に入れると実感が持ててうれしい。もちろん勇姿を拝まないわけにはいかない。ところがどっこい、テレビが無い

今までの年末は実家に帰省していたから不便を感じなかったが、今回ばかりは時勢もあって帰るのを断念した。普段テレビはとんと見ない。ゆえにこの部屋にはラジオしかない

しかしなんら心配はなかった。ラジオには幼い頃から馴染みがある。扱いにも慣れている。動く源ちゃんを生で見れないのは少し惜しいが、なんたって紅白は音楽番組。歌こそが主役だとすると、映像がなくても良さがまさか0にはならないだろう。

というわけで2020年12月31日の夜。いそいそとNHK FM にチューニングを合わせた。


2020年を振り返って

司会のウッチャン、大泉洋さん、ふみちゃんの軽妙なやり取りに和んでいるうちに、あれよあれよと彼の出番となった。おおいに話題となった「うちで踊ろう」に、2番の歌詞を加えた新バージョンを披露。……とはSNS を通して知っていたが、前フリでその旨が口にされると、改めて期待で胸が弾んだ。それと同時に、頭の中の記憶がちらついて、思わず目をつぶった。

この歌を巡って、そもそもこの歌が生まれるきっかけになった病のせいで、悲しいことや苦しいこと、憤りを感じることや全部が嫌になることが数え切れないほどあったのだと、走馬灯のように思い起こされた。それは作品をつくり出した当人である彼も、作品を通してつながって重なっていった人たちも、世の中に翻弄され立ち向かい傷を負ったすべての人にも、共通することだろう。

自分はこれっぽっちの力も持たない存在だと、わかっていたはずなのに痛いほど思い知らされたのがこの1年だった。幼い頃から心の支えにしていた芸術や文化が、事も無げに切り捨てられ踏みにじられる状況に、ほんの少しも太刀打ちできなかったことが悔しくてたまらなかった。本気を出せば、全力でやれば、ちょっとくらい何かに影響を与えられると思ってしまったことを、恥ずかしいと感じた。

そんな年の瀬に、彼はそれでも歌うんだ、と思ったら、曲が始まる前から鼻がツンとした。

どんな思いで続きをつくったんだろう。その詩は何を表すんだろう。息を呑んで待つ。ギターの音が聞こえる。


うちで踊ろう(大晦日)

知ってはいたけど打ちのめされた。どくどくと心臓が波打っているのがわかって、そうして今こうやって文章を書いている。

映像の一部はNHK の公式Youtube で、歌詞のすべては星野源の公式SNS で公開されているから、ぜひ目を通してみてほしい。こんなことになるのだったらラジオを録音しておけばよかった、とも思ったが、あとの祭りである。


(2021年1月8日 追記:フルバージョンが公開されました!!)



ポップソングが苦手だった

寂しさや苦しみ、辛さや悲しみを乗り越える方法は人それぞれだろう。笑い飛ばして忘れる人もいれば、何かに没頭して頭を切り替える人もいる。別世界に連れていってくれる物語にのめり込む人もいれば、現実そのものを美しいと見方を変える人もいる。どれもこれも、誤っているだとか正しいだとかではない。

そのうえで言う。ポップソングが苦手だった。現実はどうにもならないことで埋め尽くされているのに、そんなの最初から無いかのように無視する歌が気に食わなかった。簡単に乗り越えられるし忘れてしまえる陳腐なものかのように、悩みや痛みを軽々しく扱う詩が気に入らなかった。愛があれば大丈夫とか、希望で世界は満ちているとか、ぼくらいつだってひとつだ、とか。そんなことを疑いもなく言えるのは、死にたい夜なんか経験したことも無ければ、孤独に絶望するひとりの時間も知らない人だけだと、思っていた。

でも、星野源の歌だけは、あんなにポップなのに聴くことができた


諦め進もう

彼が孤独な人だから、だと思う。これだけ愛されているのにどこか寂しそうなのだ。きっと、失敗も絶望も地獄も両手に抱えられないほど味わってきたからだろう。それなのに、いや、だからこそか、彼は暗い感情や事実をことさらに取り上げるでなく、笑いながら受け入れている。その姿勢は、アーティストとして活動する初期から一貫しているように見える。

「うちで踊ろう(大晦日)」で、彼は以前にも増してその姿勢を貫いていた。土台となる思想に変わりはなく、しかしどこまでも洗練されたメッセージが、一言一句胸に刺さった。


愛が足りない
こんな馬鹿な世界になっても
まだ動く まだ生きている
生きて踊ろう 僕らずっと独りだと
諦め進もう

出典:星野源『うちで踊ろう(大晦日)』


明るい調子に諦めをたっぷり含んだ歌詞を乗せ、あくまで優しく穏やかなメロディでもって、生半可じゃない未来に突き進む背中を、そっと押してくれている。容易にはいかないだろうこれからについて、根拠の無い希望を闇雲に説くのではなく、絶望と孤独を踏みしめた言葉で、「諦め進もう」と彼は言った。その詩が、どれだけ重たくて優しかったか。


人はひとりだし、音楽で世界は変えられない、けれど

彼はかつて、自らのエッセイで以下のように述べている。


今でもたまに、「音楽で世界を変えたい」と言う人がいる。僕は「音楽で世界は変えられない」と思っている。無理だ。音楽にそんな力はない。
でも、音楽でたった一人の人間は変えられるかもしれないと思う。たった一人の人間の心を支えられるかもしれないと思う。音楽は真ん中に立つ主役ではなく、人間に、人生に添えるものであると思う。
僕の歌は応援しかできない。苦しい日々を変えたり、前に進めることができるのは、あなた自身、たった一人しかできないことなのだ。

出典:星野源『働く男』2013年 マガジンハウス / 2015年 文春文庫


2020年。たしかに芸術で病は治らないし、音楽で世界は変わらなかった。不要不急の名のもとに真っ先に見捨てられるものだと現実を突きつけられ、不甲斐なく失望したのを覚えている。

それでも、そんな状況の渦中にいるひとりのアーティストが、音楽の力で応援し続けてくれていることは、絶対に希望だと思った。孤独な音楽家が生み出した歌が、誰かの背中を押す。その人が変わって、変わったその人がまた新しい何かを生み出したり、目の前の困難を乗り越えたりして、また別の誰かが救われる。そんなつながりが、たくさんたくさん連なって、そうしていけば、きっと世界だって、いつか。


関連・参考

2020年の紅白歌合戦がどんな番組であったのか、が記されています。

星野源の「うちで踊ろう」とはどんな歌であったのか、が記されています。

そうそう、こういうことが言いたかった……と感じました。端的でわかりやすい記事です。


最後に

この文章を書くにあたって、以下のKXさんの投稿を改めて読み返しました。当時の強い怒りと憤りの理由を、丁寧に論理的に解きほぐしてくださった行為には、感謝しかありません。2020年、一番印象的だったnoteです。


お読みいただきありがとうございます!とても励みになります。他の場所での活動はこちらにまとめています: https://lit.link/aramashi