見出し画像

名古屋の「ちいさなパナマ運河」~世界運河会議の成果を生かしたい

 名古屋の中川運河には、ささやかな感動があります。数年前、水上バスに揺られて名古屋港まで下ったときのこと。港に近づくと、「中川口通船門」という観音開きの水門が閉じて、水位が港と同じになるまで待ちます。その間、船は左右に揺れながら、水面の上昇に合わせて少しずつ持ち上げられていくのです。「これって、パナマ運河だね」と驚きました。

画像1

(運河の写真2枚は、名古屋市の了解を得てホームページから使用)
 運河を管理している名古屋港管理組合によると、名古屋港は潮の干満により最大2.6メートルまで水位が変化します。門の開閉で海水を注入して名古屋港と同じ水位にすることで船が行き来できる仕組みです。
 中川運河は、名古屋駅からひと駅先の「ささしまライブ24」という再開発エリアから、名古屋港まで約8キロメートルを結びます。昭和の初め、産業の都・名古屋の物流を担うために開削され、1932年に開通しました。当時は「東洋一の大運河」とも言われたほどでした。
 その後、貨物輸送が水運からトラックにシフトしました。「水運利用は昭和39年をピークに減少し、いまはピーク時の約1%」(名古屋市住宅都市局都市整備部名港開発振興課)。ときおり、水上バスが往来する静かな水辺空間です。
 この中川運河のある名古屋市で5月21日から3日間、世界運河会議が開かれました。リモートによる講演やセッションです。中川運河の再生にかかわってきた一般社団法人・中川運河キャナルアートが中心となって企画してきました。
 名古屋市や中川運河沿いに本社がある企業や大学、運河沿いのアートイベントに協力してきた市民らと連携し、延べ660人が参加。ニューヨークやロンドンなどの川辺の再開発を手がけた建築家やプランナー、行政担当者ら50人の発言者から、世界各地の運河の再利用や水辺のまちづくりについて学ぶことが多い会議でした。
 中川運河には、名古屋市と名古屋港管理組合が共同で発表した「中川運河再生計画」(2012年)があります。「都心と名古屋港を結ぶ広大な水辺に、うるおいや憩い、にぎわいをもたらす運河へと再生を目指す」という構想です。
 「にぎわい」「モノづくり産業」「レクリエーション」の三つのゾーンを配した構想ですが、実際は資金面や港湾・河川周辺の法的な規制が多く、なかなか具体的な姿が見えてこないのが現実です。
 会議でも、まちづくりの先頭に立って水辺のアート空間を盛り上げてきた市民の中から、「10年間やってきたが、なかなか進まない」という声もありました。

20180825水上バス乗り場

 (仮設の水上バス乗船場2018年8月25日撮影©aratamkimihide)

 世界運河会議企画委員長の秀島栄三・名古屋工業大学大学院教授に話を伺うと、「まちづくりは10年、20年でできるものではありません」と指摘します。ようやく、再生計画をひとつの指針として、民間企業が動き出しています。東邦ガスは工場跡地に三井ショッピングパーク「ららぽーと名古屋みなとアクスル」を誘致しました。敷地は中川運河に接しており、水上バスも着岸できるように整備されました。民間投資が水辺空間を変えつつあるのも事実です。
 世界運河会議は、中身の濃い会議でしたが、地元メディアではあまり扱われませんでした。水辺の素晴らしさを川沿いの住民や企業だけではなく、広く市民に共有してもらい、行政の優先順位を高めていきたいものです。

画像2

(堀川から名古屋国際会議場を望む©aratamakimihide)
 名古屋には水辺空間の先輩格があります。名古屋城から熱田(宮の渡し)を結んで開削され、1610年にほぼ完成した「堀川」の歩みは参考になります。この川もかつては名古屋城の石垣の石や材木を運搬する運河でした。旧東海銀行の頭取から「子ども時代に水遊びをした」と聞いたこともありましたが、工場や生活排水でドブ川のようになっていました。堀川は1988年に国のマイタウン・マイリバー整備事業に指定され、護岸改修と泥の浚渫(しゅんせつ)が始まり、そして「クリーン堀川」や「堀川1000人調査隊」などの市民活動によって、ようやく水辺に顔を向けたまちづくりが本格化してきました。
 桜並木で知られる山崎川など、長い年月をかけて水辺のまちづくりを進めてきたエリアもあります。流域ごとではなく、「なごや水辺エリア」とか、「アート」、「防災」といった横串を刺して報道し、お互いの連携を促すこともメディアの役割かもしれません。
 ネット上でも「#運河」の輪を広げていけたら、世界運河会議を「ちいさなパナマ運河」のある名古屋で開いた意義があると思うのですが。
(2021年6月12日)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?