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【千代田区】江戸城、二の丸池から大手門

皇居東御苑の「二の丸池」に行ってまいりました。

南側から見た図

慶応3 年(1867)に二の丸御殿が焼失した後荒廃していましたが、昭和35 年(1960)の閣議決定で皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することとなり、昭和43 年(1968)に現在の庭園が造られ、一般公開されました。この庭園は、9 代将軍家重時代の庭絵図面を基に回遊式庭園として復原されました。

東京都教育委員会より

二の丸御殿焼失についてしらべてみたところ

1863年
1868年

に二の丸が焼失していたようです。

http://tsujimoto.sub.jp/TUS-SOTSU/ITOU2006.pdf

1863年は将軍徳川家茂上洛、薩英戦争、8月18日の政変。
1868年は明治元年。

きな臭いですね。

御殿の火災回数は

1600年代には7回
1700年代には2回
1800年代の7回

1850年から1868年の間の18年間で5回の御殿火災っていうのはもうキナ臭すぎます。

話題のAI風チャットロボットに

「江戸城を攻略するにはどうしたらいいですか?私なら平川門から最短距離で本丸を攻略したいとおもいます。」

と質問したところ、江戸城は守りが固くて門から攻めるのは現実的ではない。という答えがあり、なら、大砲とか忍者とかはどうですか?と質問したところ、それも非現実的だという返答があり、

「内側から火災によって攻めるのが一番の得策」

と出てきました。

まさに江戸末期はその作戦を実行していたんじゃないですかね。恐るべしAI

ヒレナガニシキゴイ

池にはヒレの長い優雅な魚が。一匹ではなくすべての魚が優雅。

一瞬大きい金魚かとおもいましたが、ヒレナガニシキゴイという名前でした。1977年に当時の皇太子殿下の提案で、インドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを交配してつくられたという逸話をもっています。

さらに調べていくと2019年11月19日に天皇皇后両陛下が退位前に来園者に楽しんでほしいと望まれ、この池に黄金色とプラチナ色のヒレナガニシキゴイを9匹放流されているようです。

そのうちの一匹ではないでしょうか。そう考えるとちょっと恐れ多い・・・

築山もあり、築山から池を眺めた図
滝も流れています。ここまで入り込める庭園もなかなか珍しいです。記念にパチリと。

江戸時代末期の1855年頃からの地図を見ていこうとおもいます。

大江戸今昔巡り 1855年頃

いま雑木林になっている場所が二の丸、そして二の丸大奥 池の東と北には巽奥櫓と東多聞、北多聞があります。多聞は城壁の上に築かれた櫓です。
現在はありません。

南側には「百人番所」こちらは現存しているようです。江戸時代の雰囲気が伝わってきます。

甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていました。各組には同心が100人ずつ配属されていました。

甲賀、伊賀、といえば忍者、根来といえば僧兵ですね。

戦国時代が終わって彼らの働き口はなくなったと思っていましたがこういったところで武士として代々働いていたようです。

以前、原宿は隠田村といって伊賀忍者に与えられた土地だというや、千駄ヶ谷の鳩森神社には神宮外苑ができたことによって移転した甲賀神社があったことも調べました。

東京は忍者に由来のある場所が多いです。四谷には服部半蔵のお墓もあります。


現在の地図

二の丸庭園にそって内堀があったようですが、明治以降は埋め立てられ皇宮警察になっているようです。

庭園の北側には諏訪の茶屋という建物があります。

11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の時に創建されています。かつては吹上御苑(西の丸西側、現在の御所などのある一帯)にありましたが、昭和43年、皇居東御苑の整備の際に移築されました。建物は、明治45年に再建されたもので茶室としての利用はできません。 ということで明治後期建築、昭和に移築という由来。


では東京時層地図を・・・



明治初期文明開化時期

明治維新後、あっというまに二の丸、大奥は更地と化し教導団工兵作業所となります。

更地にしたというより、

「なにか偶発的な事故を装った火災」

によって焼失したということが言えるかもしれません。取り壊したのか、火災で焼失したままなのか・・・そもそもその火災というのは・・・・と謎と勘繰りが深まります 汗

池は辛うじて残っているようです。こうなると庭園という趣はないでしょうね。荒廃したというのは本当のようです。


教導団は明治32年まであった陸軍下士官の養成組織

北の丸は近衛兵営となっているのに、本丸跡が下士官の作業所というのは使い勝手の問題ということが言えるかもしれません。

不思議なのが本丸は天皇の住まいにはならなかったんですよね。
住まいとなったのは東側の吹上御庭と称される巨大庭園で。

このあたりの経緯はまだ調べていません。

明治後期

主馬寮というのが出来上がっています。馬を飼っていたようです。

主馬寮(しゅめりょう)は律令制において宮内省に属した機関。令外官の1つ。
馬および馬車装具の管理、馬の飼養や調習、牧場、輸送などに関する事務を扱った。天応元年5月(781年)ごろ設置。

Wikipedia

大正時代関東大震災前

内堀の埋め立てが始まりました。

現在の皇宮警察の裏あたりは内堀を埋めた場所だったようです。

百人番所の裏側がちょうどその場所にあたります。

枢密院の表記があります。大正8年着工、11年完成で国会議事堂のモデルとなっているといわれています。現在は皇宮警察の庁舎として利用されています。埋め立てた内堀の上に立っているにも関わらず、関東大震災を乗り越えた歴史的建造物ですね。

Wikipediaより

昭和初期戦前

戦時中の地図の白抜きです。真っ白ですね。

1955年頃 高度経済成長期前夜

道路ができ、一般公開の下地ができつつあるように思えます。この時代は池は内堀と同じく埋め立てられているようです。

東京オリンピック直前の1963年に特別史跡に指定
1968年から一般に公開。池もその時に復元。その公開前の貴重な地図です。

二の丸の休憩所にちょうどこのくらいの時代の写真がありましたので掲載します。

主馬寮の馬場です。今は雑木林になっています。
梅林坂、下梅林門から上梅林門へ至る坂です。江戸時代は階段だったようです。左手には汐見太鼓櫓跡の石垣があるはずです。(見切れていますが)
百人番所のはす向かいの中之門跡 江戸時代の地図でも櫓はありませんでした。大番所が門に沿ってあります。公開前は作業所としてつかっていて、公開後に江戸時代の場所に戻されたという説明書きがかかれていました。
大番所 公開前の写真の建物が移動したのかとおもいましたが、屋根の形が違うような・・・
大手門の渡櫓って復元だったんですね。1965年より今の方が良いです



1990年頃 バブル経済期

御苑内は現在と変わらない道ですね。

この時は藻がすごかったですが翌週は綺麗になっていました。
昭和になってからの復元庭園ですが、江戸時代からこの地からのこういった眺め、この時期の太陽を世代を超えて多くの人が目にしていたのだなと思いました。
大手門渡櫓 重厚感が素晴らしいです。ただこれは復元なんですね。初めて知りました。それにも関わらずかなりの重厚感。江戸時代を感じます。

今回で2回目の皇居東御苑ですが2回ではまだ終われません。

次回、「明治政府はなぜ本丸を早々に作業所にしたか」


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