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【渋谷区】国立オリンピック記念青少年総合センター

国立オリンピック記念青少年総合センター 通称、オリセンに行ってまいりました。

こちらは小田急線の参宮橋駅が最寄りで、代々木公園と明治神宮に隣り合っています。

文科省が管轄する独立行政法人が運営する青少年に学習と体育の場を提供する社会教育施設(研修所)ということで、若者が多く利用しています。ざっくりいうとスポーツ、音楽などの合宿所です。

参宮橋近辺でスポーティな恰好をして複数で歩いている若者は、多くがこのオリセン利用者といっていいと思います。個人利用も可能ということから、ホテルのような使い方もできるのではと思いました。利用料金などは一泊3770~5740円と周辺地域に比べてリーズナブル。

ちなみに、南の超高級マンションは家賃150~260万円、歌舞伎役者の市川海老蔵さんが最上階に住んでいることは有名です。いわゆる海老蔵マンション、エビマンと言われているとか。

家賃100万円も払うなら別な事に使いたいというのは庶民の考えなのでしょう。あー今月もカツカツだ(汗)

久しぶりに妻子のいぬまにウーバーイーツ稼働しようと思います。皆さま暑いですから家から出ずにウーバーイーツじゃんじゃん注文してください。

現代の地図

現在の地図

地図でみるとオリセンは代々木公園や明治神宮の一部であることが一目瞭然でわかります。

オリセンは文科省の機関でそれはわかるとしても、海老蔵マンションはどういった経緯でここに食い込んでいるのか。

三井不動産の管理のようですが・・・・三井不動産は他にも防衛省跡の六本木ミッドタウンや日比谷ミッドタウン、渋谷駅のミヤシタパークなど官民連携の事業が得意分野なのかなと思います。

追記 

と、思ったら、この場所は小泉内閣時代に国有地処分で売りにでて、イギリスの不動産会社が競り落としてマンションを建てたのだとか。現在海老蔵マンションの前に建物が建築中ですが、これも関連会社っぽいですね。

江戸時代 1860年代ごろ

1860年代 大江戸今昔巡り

江戸時代末は代々木村であり、東側には

氷川社領 西丸御留守居 林百助 三百俵 
北側は神明社 瑞円寺持
さらに東の明治神宮は井伊直弼の下屋敷になります。

西丸留守居とは?

西丸留守居は若年寄の支配を受け、役高2000石で諸大夫役。二丸留守居は若年寄の支配を受け、役高700石で布衣役。両役ともに、長年勤仕を果たした旗本に対する名誉職であった反面、本丸留守居とは異なり左遷の意味合いを含むことも多かった

Wikipedia

林百助

江戸時代の林家といえば林羅山を始祖とする昌平坂学問所の長でもあります。
林大学頭家11代当主 林復斉の子で林 鶯渓 本名 林晃(はやしあきら) という人物がいるのですが、

安政6年(1859年)、西丸留守居となり、学職を兼ねる

Wikipedia

ということですので、おそらく林百助は林晃で林 鶯渓ではないでしょうか。

学識豊かな林百助邸が今は青少年のスポーツ文化の学びの場となっているところあたり、なんらかの縁を感ぜずにはいられません。

神明社 瑞円寺持

瑞円寺というのは千駄ヶ谷にある鳩の森神社の別当寺に同じ名前の寺があります。江戸時代は神仏習合でお寺が神社を管理していました。

いまは神社は誰でも気軽に訪問できる場所ですが、お寺はお墓参り以外はいっちゃいけないような雰囲気があります…このあたりは明治政府の政策が今でも影響を及ぼしている所なのでしょう。
お寺も気軽に訪問できるような形にすると、お金も落としやすいのですが・・・。

神明社は現在では芝大神宮として有名で江戸時代はこの場所にも分社していたことがわかります。

現在の場所でいうとオリセンの宿泊A棟あたりです。円形の建物。

元神社が宿泊施設になっているという事で、なにか逸話があるのかなと調べてみたところ10年前にこんな投稿が。

オリンピック記念会館?の研修宿泊施設の丸い建物
560 :本当にあった怖い名無し:2011/07/02(土) 23:41:52.93 ID:qrTNj96IO
東京都民じゃないので土地勘ないけど、オリンピック記念会館?の研修宿泊施設の丸い建物って何かあるの?
2年くらい前の冬に知人が宿泊した時、夜中の2時ぐらいに目が覚めてたらやたら窓が明るかったので覗いたら、
オレンジ色の人魂?UFO?が浮かんでいて、怖くなって見つからないようガクブルで布団かぶって寝たらしい。
朝になって夜中に寝ぼけて街灯とか勘違いしたのかと、度窓を覗いても光源になりそな物はなかったらしい。
普段オカルト否定派の奴なんで、まんざら嘘とも思えん。もし、何か知っている人がいれば、リアル・オカルト問わず教えて。

5ch

神社跡、練兵場跡の宿泊施設ということでなにか怖い話的なものがあるかとおもったらこういう話が出てきました。ありそうな話ですね。


明治初期

明治初期

縄文時代のこの辺りの特徴である、リアス式海岸というか鹿の角のように海が入り込んでいる土地であることがわかります。

画像はフリー素材より借用 縄文時代のこのあたりをイメージ。

ちょうど岬の一つである八幡神社では縄文時代の遺跡が発見されました。ここで生活を営んでいたようです。

代々木八幡神社で出土したとされる石棒 縄文時代には多くつくられたようです。生殖器崇拝は古代から東洋西洋問わずにありますね。

話はもどりまして、周辺地域は畑と茶畑が広がります。現在の明治神宮や代々木公園にけっこう住宅が並んでいることがわかります。丘になっているので住居にはよさそうです。

西側には春の小川の由来となっている河骨川があります。こちらがもし氾濫したとしてもこの丘の上に住んでいれば水害は関係ないです。小川だから氾濫っていっても大したものじゃないか・・・

明治後期

明治後期

現在地である青印の南にあるちいさな池は林家の庭の池だったのでしょうか。

明治維新どこ吹く風と暮らしていた代々木村の人々ですが、大激震が走ります。

それが南豊島御料地と代々木練兵場の登場。

1909年 明治42年 7月  陸軍練兵場が代々木村に設置。

村を離れることとなった代々木村の人々は「訣別の碑」という石灯籠を代々木八幡神社に残しています。

代々木八幡神社の一対の石灯篭
100年経って血筋由縁の方々が神社と共同して訣別の碑を修復。
100年前の当事者の方々の名前が刻まれています。小糸弥五郎さん、小宮東次郎さん、鈴木喜一さん
伊東徳太郎さん、高橋誠貫さん、諸星常三さん、平田友吉さん、小糸平吉さん
久米民之助さん・・・あれ???久米民之助??

久米民之助といえば群馬沼田出身で官僚、設計士、衆議院議員、なんでもできるスーパーマンで実業家としての顔が強く、現在も故郷沼田では法要が営まれているという偉人。

次男は赤坂サカスや恵比寿ガーデンプレイスなどの手がけた久米設計の創始者。

代々木上原の4万坪の広大な久米御殿を記事にしたら、御子孫の方がコメントをくださったということもありました。

明治期の薩長出身者が重用される時代にこれだけの業績を残したガチの人、ここで思いましたが渋沢栄一も官僚やめて実業家として活躍していますね。この時代は優秀な人はいったんは政府の中に入るも、そこでは薩長人事などがあり、そこを飛び出してみずから道を切り開いていったのではないでしょうか。

久米民之助は明治40年当時は衆議院議員をやめている時期ですがおそらくは代々木村の移転の話があったときは衆議院議員で代々木上原の名士として尽力したのだと思います。

「久米先生、我々の家が軍用地になってしまう、なんとかならないか」
「よし、なんとかしよう」

その後

「すまん、なんとかならなかった、薩摩の大山さんの力が強くてな。この思いを忘れぬように訣別の碑を造って代々木八幡に奉納し後世につたえよう。費用はわしが出す。」

こういうやり取りがあったのではないかと妄想。あるでしょうね。

久米民之助は故郷の沼田城跡を買い取って公園として整備して、その後沼田町に寄付し、上原の久米民之助洋館は2020年に故郷に移築されるなど、死後90年経っても慕われている様子、そのくらいの篤志家ですから、代々木村の人々の求心力もあったのではないでしょうか。

代々木村移転の話は久米民之助Wikipediaには書かれていなかったですね。もっと探せばあるかもしれません。

すむところを追われることとなった人の思いはいかばかりか。それから100年たった平成19年に血縁者の方々によって修復され現在に至るようです

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蛇足ですが
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この石灯篭は時代的にはマンガ鬼滅の刃より10年ほど前の話

個人的感想ですが、鬼滅の刃のエンディングで炭次郎兄妹の子孫が付き合っているのが気になります。

親戚だって気が付かないものですかね。ひいおじいちゃん(ぜんいつ)の手記を物置小屋に入れていたり、ひいひいおじいちゃん(たんじろう)の刀と耳飾りと写真を綺麗に飾ってる家ということから、家族仲もよくて断絶がないので親戚だってわかりそうなんですけど。(ぜんいつ)も曾孫の記憶に残るくらいに長生きしたみたいですし。

まあ、我がことに置き換えると曾爺様の話はまるで知らないですけど。

鬼滅の刃のように、100年前の話となると誰もわからなくなるのが一般的ですが、強制移転のお話は残っていたようです。

代々木八幡神社に訣別の碑を残してくれた代々木村の人達のおかげで、この地に生活が実際にあったことを、詳しく理解することができました。

大正時代関東大震災前

明治神宮が大正9年に創建、西参道はこの時にできました。

練兵場は代々木公園一帯だとおもっていましたが、実際は西側にもかなりひろがっていて、代々木八幡神社に迫る勢いです。

なるほど、だから河骨川沿いに小さな公園が多いという理由がわかりました。


昭和初期戦前

昭和2年 1927年4月に小田原線(新宿〜小田原間)開通

戦争が厳しくなる昭和10年まで、軍が訓練するとき以外は一般開放されていたようです。これで新宿の戸山が原に入り込めたという話も納得。今みたいに高い塀とバリケードで囲われて絶対立ち入り禁止みたいな感じではないようです。


1950~55年頃

練兵場に米軍の将校宅であるワシントンハイツが出来ました。

1964年の東京オリンピックに合わせて返還され、跡地にオリンピック選手村、NHK、代々木体育館ができます。

終戦によって代々木練兵場は進駐軍に接収されワシントンハイツとなり、1955年には本施設の所在地に独身将校用宿舎が建設された。ワシントンハイツは1964年東京オリンピックの開催を機に、日本国に全面返還され、五輪期間中に同宿舎は女子選手村として使用された。五輪閉会後に選手村跡地の一部をオリンピック記念青少年総合センターとして利用することが決定し、1965年4月に運営する特殊法人が文部省の所管として発足。翌年1月から研修生の受け入れを開始した。愛称は「国立オリンピックセンター」が一般的である。

Wikipedia

バブル期

こうしてみると代々木公園全体の歴史もわかりますね。代々木公園は1967年から。

オリセンは1990年代まではワシントンハイツの独身将校宅がそのまま流用されていたということがわかりました。かなり年季が入っていたことでしょう。

その後、2001年にリニューアルオープンして現在の形になります。

退色した色合いが廃墟のテーマパークのような哀愁を感じたりします。20年前ってそんなに昔でない気がしますが。


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