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【千代田区】江戸城、平川門から天守台へ

平川門から皇居東御苑にいってみました。

庭園といえばお金が発生するところですがなんと無料。

入口は持ち物検査あり。

皇宮警察のお膝元なので、日本一安全な庭園ということになると思います。

あ、厳重さでは迎賓館でした。あそこは目が厳しかった。

平川門からの枡形門からの石垣、坂、石垣、やっと登って大奥、本丸。こりゃ攻めにくいぞと興奮しました。

江戸城を攻めるなら平川門から攻めるのは厳しいですね。

同じ江戸城でも平川門と日本武道館がある田安門と別世界と感じるほど。

小学校時代にお城好きだった僕にとってはたまらない構造です。

今回は平川門から天守台から大手門に出るまでを東京時層地図を絡めてみてみたいとおもいます。

木橋が残っているのもここだけなのだとか。もうここだけでも雰囲気ある。
警備で持ち物検査をすませるといよいよ入場 平川門は大奥から城の外への通用門だったので、多くの人が出入りしたんでしょうな。
平川門の渡櫓 重厚感が良いですねー 

こちらは当初は徳川家御三卿の田安、清水、一橋家の登城口だったのだとか。

一橋家は平川門の西側にあるのでわかりますが、田安、清水家はその名を冠した門が現在の北の丸公園にあるようにちょっと離れた場所なので、面倒だったでしょうね。

渡櫓のとなりには門のようなものがあります。


2023.2.15追記 帯曲輪門
帯曲輪門 アップ

帯曲輪門(おびくるわもん)といって、江戸城内ででた糞便や遺体を運び出していたといわれてます。

1855年くらいの地図には不浄門という表記があり。

アプリ 大江戸今昔巡り 江戸城内には第13代正二位内大臣征夷大将軍徳川家定 とありましたので1853~1858年の間の地図ということになります。

不浄門という表記があります。正面には回れずに写真はとれませんでした。なるほどここは北だし、なんとなく日影になっている場所だし、陰といえば陰ですね。他の門からだすよりここ出した方が良さそうです。ちなみにすでにこの時代は三の丸はなくなっていて跡地になっていたようです。

しかし、最近のお気に入りスポットが糞便運び出し処だったなんて・・・

いやむしろそれが良い。

平川門を入って内堀を見た図。右側が帯曲輪です。さらにその外側にも堀があり、さらに外側に外堀があるのですから、難攻不落の天下の名城の名にふさわしい造りです。なんだかめちゃくちゃテンション上がりますね。


目と鼻の先だけれど、ぐるっと回って土橋を渡らなければいけない。なんとも痺れます。


東京時層地図の明治初期を見てみましょう。大江戸今昔巡りとそれほど地形は変わっていません。

そもそもこの場所が江戸城の本丸で、将軍と大奥の生活の場所、徳川時代の中心だったのですが、

明治以降は工兵作業所になっているところがなんとも栄枯衰勢を感じさせます。

「憎き徳川を倒し、おらが薩長が天下を握った。徳川本丸の跡地は兵隊の作業所にでもしてやろう」

という意思を感じさせます。

地図をみると明治政府は現代も脈々と続いているんだなと思いますね。

だからこそ、我々一般市民も徳川跡地には入ることができると。


三の丸跡地から土橋をわたります。往時は門があったのかな。
後ろの石垣が高いですよね。明治期までは下梅林門というのがあったと思われます。とにかく規模感にびっくり。

むしろ、徳川遺構である本丸を一般公開してくれて有難うございます。

僕は栃木県出身なので、薩長明治政府、坂本龍馬とか西郷隆盛とかにはあまり心理的な肩入れはしきれないんですよね。

ただもう日本は明治政府なんだから仕方ない。賜りものをありがたく享受させていただきます。


下梅林門からほどなくあるくと、大きな石垣があります。江戸時代の地図をみると、汐見太鼓櫓と書かれていました。たしかに石垣が一段高くなっていますね。そのあたりの大名の天守台跡なんじゃないかと思うほどの規模間。石垣に圧巻です。

汐見太鼓櫓跡から坂道を上がっていくと、右手に比較的新しい建物があります。書陵部とかかれています。

書陵部 は、皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また陵墓の管理を行う、宮内庁の内部部局の一つ。

東京時層地図の明治初期

書陵部というのを測量部と勘違いしていて、明治期の測量部が現代でも残っているのだなと思っていましたが、それは勘違いでした。

それにしても江戸末期から明治初期にかけて、本丸はほとんど更地化されてしまったみたいですね。

大江戸今昔巡り 1855年頃

五十三間多聞という表記があります。石垣の上に立てられた櫓で強力な防御施設だったようです。

五十三間というのは96m およそ100メートルの巨大な櫓が建っていたということを考えると

惜しいですね。明治政府惜しい。取り壊したの惜しいですね。

さらに南には1から4の側長局と書かれています。

これがいわゆる大奥で1棟に2.30部屋がある施設だったようです。多いときには2,3000人の女性が働いていたのだとか。

うーん 徳川幕府は女性で回っていたのか。と浅い感想をしながら天守台にいってみます。

天守台の石組 筆者170㎝ いかに巨大かがわかります。
天守台の上から東を望んで 左側が書陵部で右側が桃華楽堂(光淳皇后の還暦祝いの音楽堂)
天守台 石垣部分でこの迫力はまさに天下の名城!

千代田区の公式ページより

江戸城本丸の一番北側に位置しています。江戸城の天守は、慶長12年(1607)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。
慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。
元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
元和の天守は元和8年(1622)、二代将軍秀忠の本丸改造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
寛永の天守は、寛永15年(1638)、三代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍家綱の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。
江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。
なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。

https://visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/41

江戸城再建計画もあるみたいですが、360年前に幕府が再建を止めたわけだし、明治政府は今も存続中ですし、まぁ・・・

次回も皇居東御苑を歩いてみたいとおもいます。

さすがに1回では終われません!

かなりテンション上がっていたので、帰りみちに警官の方に

「ありがとうございました!」

とあいさつしまくり、門をでた後は

「あー死んで生まれ変わったら皇宮警察になって江戸城を警備したい」

と娘6歳に言ったら

「死んだら生まれ変わりなんてないでしょ」

といっていました。

僕は最近、世の中バーチャル説、マインクラフト説、シミュレーション仮説、ゼロポイントフィールド仮説もありなんじゃないかなと思っているんですよね。


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