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【渋谷区】東一丁目の乳牛場と剣術と常盤松

渋谷から六本木方面への国道3号線から少し入った場所に國學院大學、実践女子学園などがあります。

この辺りは道が入り組んでいるうえに坂道が多く、道なりに進んでいくと思いもよらない場所にでるのが特徴です。

例えば地図上では現在地から渋谷図書館は100mも離れていないのですが、実際はぐるっと回らないといけません。

そしてこの地にも乳牛場がありました。

渋谷区には乳牛場があったことは有名で、甲州街道沿いの西原のあたりは乳牛場が軒をつらねていたことは前回でも取り上げました。

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今回は実践女子学園前から見ていきます。

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明治後期の地図 (明治39~42年 1906~1909年)

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常盤松 常盤松という針葉樹の記号があります。常盤松は現在地でいうとパークハウス常盤松という高級マンション、トラストガーデン常盤松という高級有料老人ホームあたりにあったみたいですね。(石碑があるみたいなので今度訪問して再掲載します。)

8月25日追記:行ってきました。ありました。常盤松の碑 パークハウス常盤松の一角に石碑があります。

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常盤松は樹齢400年、常盤松の碑は島津藩士が建てたという事でした。

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篆書体で彫られていますね 最後に「嘉永」「癸」という文字も見えるので、1853年 嘉永6年癸丑(みずのとうし) 

出来事はペリー浦賀来航、ロシアのプチャーチン長崎入港、13代将軍徳川家定就任。

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江戸時代末期の地図をみてみましたが、松平薩摩守斉彬の敷地となっていて松の記載はありませんでした。

Wikipediaでは「常盤松は大正時代には高松宮御用地にあって戦争で焼けてしまった」という記載もありましたが、掘り起こして移動でもしたのでしょうか。詳細はわかりません。

御料乳牛場

皇室に牛乳を収めていたようです。昭和9年発刊「大日本乳牛史」によると、明治8年東京府麻布区笄町(こうがいちょう・今の日赤病院あたり)に乳牛300頭が居て毎日宮内省から使いがきて牛乳を一升づつ持ってもっていったとの事。

笄町にいた乳牛が明治後期になって場所移動してこの地が乳牛場として作られたと考えています。

それ以前は内藤新宿(新宿御苑)にある勧農寮から御料乳を収めていましたが、質が悪く笄町の牛乳に変更になったとの事。

「大日本乳牛史」によると、この時代は牛乳を飲むものはある種軽蔑されたものであると云われています。島八百子さんによる回顧談があり、それによると

「私共が乳牛業を始めたのは明治九年の事で、これより先に麹町で坂川さんが始めていられた。当初は大分経済的にも困難で、それに四つ足を取り扱う商売なんてものは、士族のすることではないとの理由で、親戚などは絶交すると騒ぎ立てる始末でした。当時は搾乳場も不潔で牛小屋の中はいつも糞で一杯でした。その上をべったり乳牛が腹這っているので、立つと乳のあたりが糞だらけですが、それを洗いもせずに乳を搾りますと、缶の中に注入してそのまま熱湯の釜の中で湯煎いたしました。」

乳業やるといったら親類から絶交、牛乳は牛の糞入りも辞さない構え。うーんスゴイ。

麹町に坂川さんがいるのかと、江戸時代の1860年代の地図をみると確かに麹町の1番町~6番町には名字のある住宅が林立。坂川さんは発見できませんでしたが、この時代は武士と公家以外は表向き名字は許されていないので、武士の集合住宅地といってもいいでしょう。

明治維新で今まで特権階級だった武士も明治維新で生活が変わった様子が見てとれます。既存の政権がひっくり変えるどころかその政権に付随していた人達もひっくりかえっちゃうわけだから、教科書でサラッと通り過ぎる以上のものがあるとおもいます。それでも生活は続いていくので庶民の暮らし方のヒントもこういうところに隠されている気がしますね。

高等農学校 

東京農業大学の前身で戦中の空襲によって校舎が焼失して戦後、世田谷に移転。

女学院

青山学院ですね。青山学院のHPには 1895年 「東京英和女学校」は「青山女学院」と改称、普通学部(高等科・予備科・普通科)、手芸部、幼稚園(1899年閉園)を置く。

女子手芸学校

青山学院のHPには 1899年 青山女学院手芸部は独立し、「青山女子手芸学校」となる(1914年青山女学院に合同)

と記載がありました。地図は1906年頃なので大体あっているとおもいます。

実践女子学校

学校HPによるとこの時代は

1908年(明治41年) - 実践女学校(中等部)・女子工芸学校を合併して私立実践女学校、さらに実践女学校中等学部と改称。修業年限2年の高等専門学部を開設し、家政科と技芸科を設置。実践女学校付属幼稚園を開設し、下田歌子が園長に就任。 帝国婦人協会が組織を再編し、財団法人私立帝国婦人協会実践女学校と改称。

この辺りは学校や牧場等の広く場所をとれるところが多いですね。

江戸時代の地図をみると青山学院あたりは伊予西条藩主(愛媛県)、松平頼学。

御料牧場あたりは薩摩藩主(鹿児島県)、島津斉彬と大和芝村藩(奈良)、織田長易。

大名がもともと持っているところのほうが大きな土地をとってなにかをやりやすいということがここでも確認できました。

大正時代の地図

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常盤松はなくなりましたが、地名は1966年(昭和41年)まで残ります。古い地名がなくなるのはもったいない気がしますね。見栄え的な都合もあるのでしょう。たとえば原宿も変更しなかったら隠田村ということになります。

御料乳牛場の南に吸江寺(きゅうこうじ)というお寺があります。1650年と江戸初期に作られたもので無外流という剣術が吸江寺から生まれたようです。

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その説の元になっていると思われるのが「日本剣豪列伝」昭和16年

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無外流は辻月丹という人物が開き、辻月丹は剣術家として優れているだけでなく、禅者、学者でもあり、学んだ大名家は32家と大名も学ぶ流派となっていました。享保12年 1727年に79歳で亡くなりました。

現在も無外流は一般財団法人無外流として存在しています。

大正武道家名鑑(大正10年発刊)という本には無外流の範士として神戸市平野五宮町147番地の高橋越太郎さん(安政6年生まれ)という方が記載されていました。神戸の中山手通に知進館という剣術道場を開いていたようです。この時代、剣術と柔道の流派と武道家は非常に多かったのだなと感じました。大日本武徳会という団体あって、文部省も後押ししていたようです。戦後GHQによって解散。なかなかドラマチックです。現在も規模を縮小してあるみたいですよ。

この近辺で乳牛場があったことを想像してみましたけれど、学校と高い塀の立ち並ぶ場所でそういったことを想像するのはなかなか難しかったです。


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