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【渋谷区】忍者ハットリくん原宿村

今回は若者の街、原宿です。

若者とオシャレの最前線ともいえる裏原宿キャットストリートの南に神社があります。

その名も隠田神社。

隠れる田んぼ 田んぼに隠れる 田んぼに身を隠す 隠密が田んぼを耕す人になりすます 隠田。

怪しい名前ですね。

ちなみに著者は昔、原宿のような賑やかな場所に来ると浮足立ってしまって、挙動不審になっていました。急激に上がる体温、にじむ脇汗。だからあまり来たことがありません。一度竹下通りの古着屋でベロアのポロシャツを買って逃げるように店をあとにしたのが、唯一の思い出です。

と、ここまで書きながら、思い出しました。

20年くらい前は服屋さんが売れまくっていた時代で、原宿の神宮前にあったFINALHOMEという路面店によく行っていました。すっかり忘れていました。

僕もモノを知らない田舎者だから、「新作あります」でポンポン買っていたんですね。もう3か月に一回は新作が出るんですよ。

我ながらいいお客さんでしたね。でもそういうお客さんが沢山いたから繁盛していたんでしょう。当時の店員さん元気かな。店員さんについて行く形で、池袋パルコ→渋谷パルコ→原宿路面店って移動しましたね。もうブランドごと無くなってますね。

その時買った服は全部ないです。思い出があるだけ。質は良かったので、リユース全盛の今だったらそこそこの値段で売れたかもしれません。着なくてもタンスにいれておけばあるいは。

建築デザイナーのカールベンクスさんがおっしゃっていましたが

「日本の古い建物は良い建物がたくさんある。なのに日本人は宝(古い建物)を捨ててゴミ(画一化された新しい建物)を拾っている」

って言っていて、断捨離、コンマリ、ミニマリストブームの今ちょっと考えさせられますね。

そんなに簡単に捨てていいものか。

しかし現実とっておくスペースはないですもんね。トランクルームを借りて保管しておいてもその費用を考えたら現実問題として、やっぱり捨てるかな。

そもそも生きていくなかで付いてきたモノを残していたら、モノが多すぎて身動きとれなくなります。

狭い家に着ることの無くなった服の置き場なんてないですよね。いずれ手放さなければならない。

さらに思い出したことがありました。

原宿のゴールドジムにも行っていました。

24時間空いていたので早朝とか深夜2時頃に原付で行ったりしていましたね。

長いこと通っていたのですが、誰とも会話しなかったので、通っていた事すら記憶から消えていました。

この話を書き出す前はすっかり忘れてて、

「原宿はあまり来た事ない」

と思い込んでいました。思い出させてくれてありがとう。記憶なんていい加減なものです。

結構来てました原宿。

さて、地図です。原宿と渋谷をつなぐ南側キャットストリート。お洒落の街。

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明治初期・中央にデカデカとあるのは「隠田村」の文字

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江戸時代の名称は伊賀者給地隠田村。キャットストリートは渋谷川を暗渠にしたものです。

現在地は隠田神社です。昔は第六天社と言われていました。渋谷川沿いに建つ神社です。

江戸時代後期1860年頃 アプリ・大江戸今昔めぐり

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この当時は第六天社という名前で「第六天魔王」を祀っていました。

六天魔王といえば織田信長です。六天魔王を信仰し、みずからも六天魔王を名乗っていました。

後を継いだ豊臣秀吉は影響を恐れて西日本にあった第六天社はつぶしてしまったのだとか。

隠田神社のホームページには

明治18年(1855)には、穏田村84番地(現在の神宮前6丁目)にあった熊野神社と合祀。

大江戸今昔めぐりの地図には熊野神社がありますね。

今で言うと、原宿のゴールドジムとかZARAの裏手の区画に熊野神社はあったようです。

由緒について
当社の創建は定かではありませんが、穏田と呼ばれたこの地の産土神として古くより信仰されてきました。天正18年(1590)に徳川家康が関東の領主になると、翌年、家康に従っていた伊賀衆がこの穏田の地を賜りました。これは伊賀衆が本能寺の変の際に京都にいて命を狙われた家康を東国へと導いた「伊賀越え」などの武功によるものです。

忍者の話は実は人伝に聞いていた話ではありましたが、400年の歴史がある神社のホームページにも書かれていました。

「原宿は忍者の村」

原宿忍者村です。しかも伊賀忍者。ハットリくんです。今年46歳になる私の世代では流行りましたね。あついですねハットリくん。ファミコンゲームもあった。ハットリくんが伊賀忍者でケムマキくんが甲賀忍者でライバル関係にあって。

古地図を辿ると忍者の伊賀者甲賀者の土地って結構あります。前回の絵画館の所も甲賀者入会地でした。また千駄ヶ谷の鳩の森神社には甲賀稲荷が祀られています。(絵画館も鳩の森神社も近い)

隠田神社は空襲で焼けたのち再建し、そこから50年、老朽化で平成10年に新築されました。

神社は周辺と比べて一段高いところにあります。

娘撮影

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神田明神、日枝神社、品川神社、代々木八幡神社など歴史ある神社は周辺よりひときわ高い場所に建っています。ここも然りでしょう。

アースダイバーの中沢新一さんは、岬は縄文人の聖域とされていて、時が流れてもそれが現代にも影響を及ぼしているとおっしゃっています。面白い切り口ですよね。

東京は縄文時代はリアス式海岸のようなに海が入り込んでいた土地でした。

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こちらは東京の地形図ですが、縄文時代は色濃い所は海が入り込んでいたそうです。そして岬にあたるような高台は神社や貝塚が多い。これを中沢氏は

「縄文人の聖域という概念が、現代にも影響を及ぼしている」

としています。

そういわれてそこに立つと古の人の生活も浮かんでくる気がします。

本殿正面 こじんまりとしながらも凝縮された造りです

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本殿横 娘撮影著者近影

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旧第一鳥居の柱基部

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この鳥居は今から330年前に熊野神社の参道に建立されました。延宝7年(1680年)末4月2日の刻石があり、明治18年の合祀の際に現在の第一鳥居の場所に移設され、その後震災戦火を招かれ、平成24年まで地域に発展を見守ってきました。

江戸時代初期です。歴史が深い。

原宿は昨日今日の場所ではなく、徳川幕府開闢以来400年の人々の歴史が刻まれている場所なんですね。

大正時代の地図。表参道が出来上がりました。明治通りはまだですね。

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住所としての隠田が消滅したのは昭和40年の事。わりと最近に感じますが56年前は最近ではないかな…。

伊賀忍者の里、原宿。

いまでも忍者の念が土地にあるのか、原宿に集う若者たちにも忍者的要素が垣間見れます。

忍者のイメージとして、高い身体能力、強靭な生命力があげられます。

若者たちは多くはローティーン、人生で一番免疫力の強い時期で、なにもトレーニングなどしない状態では一番強い時期です。

そして隠密の隠を表しているように、ここにくる若者達も学校や自宅では隠している一面をここでは見せています。

普段は町民やお百姓として過ごしていた忍者の二面性。

格好も忍者といえば黒を基調にした格好。全身黒といえばヨウジヤマモト、ヨウジヤマモトといえばラフォーレ原宿。

ああ、苦しい。今回は苦しすぎる自論になりました。

忍者の黒い恰好はのちの世の創作で、本当は目立つ黒い恰好をしていなかったらしいですし、ヨウジヤマモトは強引すぎました。

ロカビリーや奇抜な恰好などは代々木公園一体にあった米軍関係者のワシントンハイツの影響が色濃く残っているのだということは、これまでで学んでいました。

原宿・神宮前は隠田村という地名で伊賀忍者が移り住んでいたことをお伝えできればそれだけで十分でしたね。

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