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「おばあちゃんとBLとJK」が描くヲタク賛歌~「メタモルフォーゼの縁側」を読んで~【後編】


おはようございます。ホラー映画を見るのは好きですがお化け屋敷は嫌いです。あらいです。

今日は「メタモルフォーゼの縁側」の感想文、後編です。前編を読むとよりすっと入ってくるところも多いかと思いますので、まだの方はこちらから。では後編どうぞ。

「秘め事」としてのBLを巡って

この作品は途中からW主人公的な感じになっていくのですが、もう一人の主人公は、なかなか周りにBLが好きと言い出せないが、好きなモノの話を一緒にできる友達を、心の底からほしがっているJK、です。なかなか周りに好きな人がいないマイナーなジャンルだったり、おおっぴらに言うのが恥ずかしいけどたまらなく好きなモノがあったりした経験。誰しもが思い当たるところあると思います。この子はまさに、じれったいほどうじうじしているところを含めて、読み手のちょっと目を背けたくなるような、でも切実な思いに触れてきます。

BLは他人に「好き」、と公言するのをはばかる人が多いモノとしてよく描かれます。ある人は自意識、ある人は世間体を気にしてその趣味をひた隠しにします。ただ、この作品の「核」はそこじゃないんです。その各々が抱える障壁を越えて同じ趣味の人と「純」に作品を楽しみ、推しを尊び、新作について語らう。その楽しみが描かれるところが、最高に泣けるのがこの「メタモルフォーゼの縁側」だと思ってます。もうこれは

と言っても差し支えないぐらいの作品じゃないかと思います。主人公二人で新作について語らうことを作中で「会合」って呼ぶんですけど、もうその感じもたまらなく愛しい。秘密基地に放課後集合する感じで愛しい。推せる。

「多様な愛」と言うのはいいけれど

BLという文化を取り扱う作品の多くにどうしても共通してきちゃうのが、「多様な性、愛の形を認めて~」的なヤツ。これ、大切だと思うしその主張はぜーんぜん否定する気はないんですけど僕はこの匂いを感じ取ると思っちゃうことがあります。

「主人公が乗り越えた(受け入れた)のは多様な愛の形じゃなくて男同士の恋愛のあり方、だけじゃない!?」

物語一つでいろんな愛を描くのが難しいのは重々承知ですが、社会でよく言われている「多様な性や愛の形を認めよう」みたいなものとBLを直結させるのは、ちょっと安易だなぁと思っています。その点において、「メタモルフォーゼの縁側」はこのメッセージと誠実に向き合っています。

男同士の恋愛が劇中劇的に出てくるマンガで描かれ、同じ趣味を持つ同性への愛、親子の愛、作者の作品への愛、受け手の作品への愛、キャラクター(異次元に存在するもの)への愛、亡き者への愛、これらすべてが前編で紹介した、語りすぎない「粋」な筆致で語られます。この作品の中で触れる「愛」はどれも平等に切実であり、どれも平等に救いで、かつどれも平等で呪いです。すべてに受け手が見逃せない、「愛」が存在している。これぞまさに「多様な愛の形」だと、僕はこの作品を読んで思い、いたく感銘を受けました。

「すき」「たのしい」という思いが生み出す、純度100パーセントの愛を、消してきれいごとでまとめ上げることなく、それが向き合わなくてはいけない障壁を描写しながら、その愛の素晴らしさを真っ正面から描く「メタモルフォーゼの縁側」、おすすめでしかないです。

好きでたまらない何かを持つ、「ヲタク」の皆様、読後になんだかむんっを張って生きていける気がする作品ですので是非。

ヲタク、なんと素晴らしい生き方。ではまた。

記事を読んで「メタモルフォーゼの縁側」が気になった方はこちらから~

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