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二打席目かと思ったら五打席目だった、みたいなことが多すぎる日々のナマキズや、在りし日の…

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二打席目かと思ったら五打席目だった、みたいなことが多すぎる日々のナマキズや、在りし日の行列風景を忌み嫌いながら懐かしむアレな感じとよく似た半歩先のまぐれ当たり的観察を捏造してはぐらかす四半世紀×2付近で水に当てられてしょぼくれた麩菓子みたいな預言の書。預託者は不明。

最近の記事

さよならスピリチュアル。あるいは放課後のスピリッツ。

”スピ系”から、距離を置こうと思う。 我ながら、そんな気味の悪いことを思っている今日この頃だったりする。 いちいち思うことですらない。 さっさと距離を置いたらいい、と思う。 思うだけで、外せないのだ。 何が外せないって、その手のインフルエンサー諸君のアカウントフォローだ。 なんなら、オンラインサロンなんかにも入ってしまっている体たらく。 思いとは裏腹に、謀反が捗らない。 我ながら、馬鹿みたいだと思う。 なにしろ、とっくに心は離れている。 そんなことはとっくにわかってい

    • それは生々しくて、なのか

      うんざりするような年明けで、体のどこかが普段以上にシャキッとしない。 そもそもシャキッとしたところがないタチのものが言うのだからそれは、ことの他深刻だ。 嘘だ。 自白したがる”深刻さ”など、自惚れた見栄の言い草でしかないと相場は決まっている。 多分だ。 個人的毛嫌いのことだからどうだっていい。 SNSが苦手だ。 とはいえ、ついつい見てしまうタチでこそある。 当てにしているのだと思う。 なにしろ、テレビを見ないからきっと、多分だけど飢えているような状態にほぼほぼ等しいのだ

      • 鏡なんて古ボケた言い草

        ほぼほぼやる気がない。 ないのだし、出す気こそほぼほぼない。 つまり、これでいいと思っているっぽいのだ。 今現在のやる気のなさをどうにか信じ抜きたい、ということなのだと理解している。 正解かどうかはわからない。 もとより、正解などとっくにどうでもいい世の中であるはずではなかったか。 印象や感想ばかりなのだ、なんだか。 そういったものに偏って、疑いもなく考えこそなく歩み続け過ぎてしまった気がしている。 世間のことはどうでも良い。 ただのあたし自身が、ちっとも好きではない

        • 逆転する"タレント"

          常に笑顔で穏和な雰囲気であることと、常に伏し目がちで物憂げな雰囲気であること。 どちらが好ましいか、あるいは魅力的であるかと尋ねれば、ほとんどの人が前者と答えるのは当たり前のことかと思う。 わざわざ厄介そうなものを選ぶのは、変わり者のすることだ。 誰だって、面倒は嫌なのだ。 なにかと面倒が多い世の中にあって、少しでもその手間を省きたい気持ちはわからなくもない。 かく言うあたしこそ、誰よりも面倒臭がりなのだ。 どうして面倒が多いのか。 誰よりも面倒臭がりを自認するあたしな

        さよならスピリチュアル。あるいは放課後のスピリッツ。

          不機嫌な親切

          “人に親切にしましょう“ などと、いちいち指図されなくても常識的に心を砕くことくらい当たり前に心掛けて生きている。 図々しい言い草のつもりはない。 電車で席を譲ることに躊躇はないし、スーパーのレジで先を争うような浅ましさを思いついたことはない。 ファミレスやコンビニで、店員さんにタメ口をきくようなマナーはありえないし、我先と信号無視、などもってのほか。 当たり前だ、図々しいはずなどあるわけがない。 当たり前なのだ。 あたしは商売人だ。 端くれのつもりでいい。 所詮碌なも

          不機嫌な親切

          Lookin’ zoom out 〜さらばルッキズム〜

          男女問わず、若くてキレイな子を見ると“いいなあ、格好いいなあ“ と思う。 その直後に後悔する。 若くもなく、美しくもなく、大したことも成し得ない年増は見苦しいだけの無用の害悪なのか。 いや、誰も何もそこまで言ってないから。 とはいえ、自意識過剰も自己嫌悪も大概に通ったものだと個人的には思っている。 だって、本音ではちっともそんなつもりは微塵ほどはあっても本気のつもりこそ微塵もないのだ。 あたしばかりに限ったことではない。 誰しもがそうして、本音をひた隠しに許して生きなが

          Lookin’ zoom out 〜さらばルッキズム〜

          不可逆でもないらしい分岐点が揺れていた

          “これまでとは違って“ この夏に何度となく聞いた気がする。 子供たちの習い事や部活動、大会、学園祭etc あるいは旅行や帰省、飲み会や会合といった日地の集まる機会だとか。 “これまでと違って“ 面倒だったり楽しかったり嬉しかったり懐かしかったり、つまりは“これまでとは違って“ かつての如く無事に行うことができた、ということだ。 “これまでとは違って“ これまで、と一言で括れてしまうほどに、つまりはここ数年の騒動によって求められたきたあたしたちの生活様式というものは、

          不可逆でもないらしい分岐点が揺れていた

          満腹が過ぎたらしいです

          ふとした瞬間に気づいてしまった。 タブレットで使っているキーボードが、腫れている。 いや、日本語。 いやいや、事実なのだ。 9インチサイズにぴったりの、しょんないキーボードが腫れている。 それもかなりの感じで、だ。 いつかのことだ。 ベッドの上にそれを放り出していて、膝の先で踏み潰してしまったことがあった。 ペキ、と。 心許ない音を聞いたかもしれない。 とはいえ、無事に使えるようだったからあまり気には留めずにいたのだ。 しばらくすると、何やら傾きのようなものを感じ始め

          満腹が過ぎたらしいです

          身もフタも、事実もない

          価値のないものになりたい。 などといった言い方はむしろ、まるで自分には価値があるらしく自惚れたものが逆説的に見栄を吐いているかのように嗅ぎつけられて要らぬ嫌悪を向けられそうだから、言葉はもっと慎重に、正確に操らなければならない。 とはいえ、ちっとも期待されたくないのだ。 自ら看板を掲げながら、心の底からそんなことを思っている。 ちっとも信頼されたくない。 なぜなら、碌でもないことくらい重々自覚しているからだ。 お客さんの期待に応えたい、などと大仰なことはただの一度も思

          身もフタも、事実もない

          続発性スポーツ観覧快楽報酬系反発症

          WBCを、一秒たりとも見ていない。 覚えているだろうか、WBC とはいえまだ、今年の春先の出来事だ。 世間は大騒ぎだったけれど、あたしはただの一秒たりとも見なかった。 大谷くんがすごいらしい。 スマホの画面に、ニュースアプリのポップアップ。 そこにはかなりの確率で“大谷“ の文字。 世間はよほどその人物のことで大騒ぎらしい。 やっぱりあたしはその話題に自ら手を伸ばしたことはただの一度もないのだけれど。 野球が憎いのか。 そうではない。 いや、でもこの前はラグビーを眺めて

          続発性スポーツ観覧快楽報酬系反発症

          失格の顔つき

          言えば言うほど聞く耳を持たなくなるのが人と言うもので、居た堪れず言うことを諦めればもとより何事もなかったかの如くやり過ごされて、こちらの思いは聞く耳を持たざる者の思うがままに操られ放題なのだ。 聞く耳ばかり、持て余しているみたいなのだ。 願ってもないことだ。 本当に、これっぽっちも願ったものなんかではない。 なんなら、ストレスしかない。 とはいえ、近頃に至っていよいよ思うのだ。 “ああ、聞きたくないのだな“ と。 考えてみて欲しい。 好きな人の言葉を自ら聞き逃したがる

          失格の顔つき

          いちいち言いたいほど碌でもない

          正しそうなことばかり言う。 言い出したらキリがないくらいに言う。 言いたいだけなのかもしれない、と思いたくなるほどに言う。 それも、あっちかこっちか、みたいなことばかりを。 いつの間にか、気付いたら世の中はそんなことばかりに成り果ててしまったかのような気が、すっかりしている。 気が付いていなかっただけで、ずっとそうだったのかもしれないとも思う。 馬鹿なので。 みだりに人様の体など触ってはいけないことくらい、当たり前のことだと思う。 思うまでもなく、それは生えて備わる

          いちいち言いたいほど碌でもない

          価値のないお互いのこと

          ますます、価値を認めない世の中になりつつある。 認めたくないのか、認められないのか、そんな区別ももちろん見逃せないところではあるのだけれど、一先ず、“払う“ とする“価値“ について、人々の“価値観“ こそが著しくその指向性を憚らなくなってきている気がする。 腐っても、商売人なんである。 起業より早十八年、ろくなことを仕出かしていない。 業績は上昇も下降もない。 何しろ離陸すらままならず、ただひたすらに滑走路の上をぴょこぴょこと跳ね回るおもちゃのような有り様をずっと続けてい

          価値のないお互いのこと

          懲りないし何事もないし

          “陰謀論“ っていう言葉がいよいよ市民権を得て、ヘンテコな話が随分としやすくなった昨今。 あたしは“陰謀論“ も“スピリチュアル“ にもまったく偏見を持たない了見をまったく憚らず、世間がそれについて“市民権“ なるそれに近い感覚を持って対処し得るに至るまでより遥か昔からつまり、ヘンテコなことを思ったり話したりしてきたタイプの人間だったわけなんであって。 そんな人間ですから、中国のとある都市の道端で突然人が倒れる様だとか、なんとかぷりんちゃらの船内でどうしたとか、革新的技術

          懲りないし何事もないし

          いいんじゃない、な暮らし

          週休三日にする。 つまり、週に四日働くこととする。 人様に、ましてやお客様に向けてお伝えするにあたって、より適当な言い方はどちらなのか。 二択において、“より“ なる強調表現からすでに適当ではないとかそんなことはどうでもよい。 当たり障りのなくお伝えする言い草のことだ。 いや、別に当たりも障りもなくなくなくてもどっちでもいいのだけれど。 “週休三日にするから“ かなり砕けたお伝えの仕方になってしまった。 とはいえ、一先ず物議を醸した様子は認められない。 あたしがそう思

          いいんじゃない、な暮らし

          ばらばらに過ごす、似たようなこと

          ちっとも覚えがない年振りに顔を合わせた実姉家族とともに、あたしの実娘が勤務しているギャラリー&カフェを訪ねてみた。 ちっとも覚えがない年振りらしく、あまり話すことがないので咄嗟の逃げ場所へ落ち延びるが如くの訪問だった。 まったくの文字通り、親気ない話なんである。 照れ臭くもなく、緊張こそなく、ノーアポにてあっけらかんと訪ねてしまったものなのだけれど、時節柄もあって忙しそうに、手狭なキッチンスペースでカフェ業務に勤しむ娘の姿があった。 音に聞こえる観光地という立地もあって、

          ばらばらに過ごす、似たようなこと