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【ウクライナ】黄金の門

場所:ウクライナの首都キーウ
時代:11世紀初め

現代の黄金の門

北欧ヴァイキングを祖とするリューリクが、9世紀にノヴゴロド王国を建設し、その後リューリク朝を中心に複数の公国が連合して、今日のウクライナ、ベラルーシ、ロシアの祖先であるキエフ大公国ができた。キエフ大公国は、ウラジーミル大帝(980~1015年)のときにキリスト教化し、その子である賢者ヤロスラフ1世(1019~1054年)の時代に領土が拡大し、最も繁栄した。ヤロスラフの治世下である1037年にキエフが城塞都市として開発され、周囲に土塁を巡らせて、街への出入り口として3つの門を建設した。当時文化の中心であったコンスタンチノープルの門にちなんで、「黄金の門」と呼ばれるようになったこの門は、3つのうち最も大きかった。
2023年現在も長引くロシアの侵攻に対し、粘り強く戦っているウクライナであるが、国土や人命だけでなく、多くの史跡が消失し貴重な文化財が略奪されていると思うと心が痛む。ここを訪れたのは、まだ戦争が始まる前の2019年6月だったが、もう当時からすでに東のルハンシクやドネツクなどロシアに近い東部地域は、危険だから旅行は控えるようにとの情報が出ていた。そんなわけで、ウクライナでは東部やクリミア半島へは行けなかったが、キーウからドニエプル川沿いに寝台列車で南下して、遊牧民クマン人の故郷ザポリージャへ行き、そして港町オデーサへ行くことができた。

構造
門は町を囲む土塁の間に建設され、最大7.5mの幅の通路があり、赤いレンガと石で塔のようにそびえ立っており、門の上には受胎告知教会が造られた。発掘調査によって門の内部はモザイクや壁画で飾られていたことがわかっている。記録が乏しいため、当時の門の正確な姿は不明だが、門の内部は建造当時の土台部分を見ることができるようになっている。門の前はちょっとした広場になっており、建造者であるキエフ大公ヤロスラフが、聖ソフィア大聖堂を持っている銅像が建っている。

左:門の上の受胎告知教会、右:門の広場にあるヤロスラフ賢公像

門の復元

門の内部
内部には当時の基礎部分が残っている
門内部に展示してある骸骨、当時の受胎告知教会の模型、現在の受胎告知教会

1240年のモンゴル(バトゥ)侵攻により門は酷く損傷し、それ以降完全に修復されることはなかった。門の内部には、一体の骸骨(複製)が展示されているが、モンゴル侵攻時に戦って死んだ当時の兵士のもので、発掘調査時に見つかったものらしい。1982年になってキエフ建国1500周年を祝うため、門は完全に復元されたが、信頼できる当時の設計ではなく、また杜撰な工事によって多くの欠陥が見られた。2007年に再び復元工事が行われ、ヤロスラフの時代の門の一部が修復保存され、近年の研究で元の門により近い外観に更新された。19世紀のロシアの作曲家ムソルグスキーの「展覧会の絵」というピアノ組曲の中に、この黄金の門をイメージして作曲した「キエフの大門」という曲があるのはよく知られている。

発掘された武器類、門の古い写真
門が復元される前の写真
黄金の門の位置 (キーウ市内)

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