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そうはならんやろ学概論 (後編)


これは designing plus nine Advent Calendar 2023 の22日目の記事であるべきだったものです。 

これは記事の後編です。前編から読みたい方は [こちら]

前編から来てくださった方も、前編は読んでない方も、この記事を読んでくださりありがとうございます。この記事は「そうはならんやろ学」と称し、普段オタクがノリで使っている言葉「そうはならんやろ」について探求するというものです。この後半パートでは、「そうはならんやろ」が現実社会の中で活用されている具体例を見たのち、前編も含めたまとめを行いたいと思います。


注意:本記事はネタ記事です。

前回の振り返り

  前編では「『そうはならんやろ』の定義」「創作における『そうはならんやろ』の効果」の二点に焦点を当てた。「『そうはならんやろ』の定義」では「そうはならんやろ」という反応が生じやすいのは①物事のつながりや前後関係がおかしいのに②それがあたかも当然のことのように提示される時 であることが明らかになった。また「なっとるやろがい!」という返し文句を使いたいならば、意味不明な状況を現実する必要があることを示した。「創作における『そうはならんやろ』」では、読者に「そうはならんやろ」と思われるとストーリーの本当に大事な部分に注意が向けられない危険性があり、このため常識離れしたシーンを描く時はそれを根拠づける描写を入れる必要があることを示した。

「そうはならんやろ」を活かす

「そうはならんやろ」を喚起する表現を適切なタイミングで用いれば、物事を印象付けたり、魅力度を高める効果が期待できる。ここからは、漫画・アニメを離れ、現実社会で「そうはならんやろ」をうまく利用している(と私が勝手に考えている)広告・商品を4つほど紹介したい。

1.株式会社レクシード 電車内広告

 レクシードはマンション・ビル・店舗・倉庫などの大規模修繕工事や外壁防水工事に携わる企業である。そんなレクシードの電車内広告がこちら。


アドカレ用記事の内容を考えていた筆者が井の頭線内で偶然発見した広告。
今でも頭から離れない。

高い改修業者に頼んだら 予算不足でこうなった
安い改修業者に頼んだら 壁をチョコレートにされた

あまりにも直球すぎるザ・そうはならんやろ広告である。高い改修業者なら普通は予算を見積もった段階で顧客側が断るだろうし、そもそも改修工事は量り売りではないのだから「予算でカバーできる分の面積だけやります」なんてことにはならない。また、いくら安い改修業者だからといって、熱で溶けてしまうチョコレートを素材にすることは何か特別なイベントでもない限りありえないだろう。それにも関わらず、こんなギャグみたいな工事をされた顧客は本気で落ち込んでおり、特に右側のオッサンの嘆く顔がじわじわくる。この広告の凄い所はギャグでありながらも「レクシードは安価で高品質なサービスを提供します」というメッセージを効果的に伝えていることである。「そうはならんやろ」を引き出す表現は、自然と大袈裟になる傾向がある。この広告も「現実にはあり得ないくらいの失敗」を引き合いに出すことで、レクシードを選ぶことがその対極/この上ない正解なのだと言葉に出さずに強調することを可能としているのだ。

2. 日清カップヌードル フタ裏スナギツネ

2021年、カップヌードルのフタ裏に「ネコがいる」ということが話題となった。これは、同年にカップヌードルの「フタ止めシール」がプラスチックの環境問題への配慮から廃止となり、代わりにシールなしでもフタを止められるよう開け口が二つに増えたことがきっかけである。新しいフタが裏から見るとネコミミに見えることから、猫のイラストが描かれることになったのである。このネコ、まん丸な瞳で口からヨダレを垂らしているとても可愛らしいデザインであり、筆者も欲しくなったためカップヌードル(醤油)を一つ買って開けてみたのだが…

本来こういうのが出てくるはずなのだが…


・・・

お 前 誰 だ よ

完全に可愛いネコチャンを期待していたのに、なんか悪人顔の動物がそこに居座っていたのである。おい、そこはニャンコのための場所なんだぞ…!
しかもなんで何事もなかったかのようにTwitter宣伝してるんだよ…そこは「ネコだと思ったコン?」とか言うところだろ….

このフタに描かれていた動物はチベットスナギツネ(Vulpes ferrilata)といい、チベットだけでなくインドやネパールにも生息している。正面から見ると悪そうなような、ふてぶてしそうなような、ぼーっとしているような顔をしていることで有名である。このシュールな顔がシークレット枠として出てくることでネット上はまた大いに盛り上がったのであった。

このデザインの魅力は、シークレット=チベスナである理由が全くわからないところである。可愛くないどころかネコですらないから、通常枠とのつながりが全く見えて来ず「なぜいきなりキツネ?」「こんなん想像できるか」と混乱してしまう。「狐につままれた」という解釈もできるかもしれないが、それではなぜ日本の狐ではないか説明できないため、やはり意味がわからない。その上、「サプライズ」とか「シークレット」とはどこにも書いておらず、単に顔が描かれているだけというのがシュールさを強調している。しかし、この読めなさ、脈絡のなさがクセになり、この人気を高めたと言えるだろう。もし、フタの裏に描かれている動物が、同じネットでネタにされている動物でもマヌル「ネコ」(こちらもクセの強い顔をしている)だったら、インパクトは半減していたのではないだろうか。「ネコ→キツネ」と種族すら違うものが出てくる意味不明さが面白さの一端を担っており、これはほぼ「そうはならんやろ」を引き起こす文脈的におかしな前後関係と同じ効果である。

現在はリニューアルされ24種のイラストが存在する。
画像はメカネコバージョン。

3. コメダ珈琲 クリームソーダなど

多くの人が聞いたことがあるだろうが、コメダはいい意味での「写真詐欺」をすることで有名だ。つまり、メニューの写真よりも明らかに重量の多い商品が提供される場合があるのである(とはいっても筆者はシロノワールとコーヒーのセットしか頼んだことがないので、実際に写真詐欺を経験したことはない)。たとえば下の画像のクリームソーダだが、ネット上の実物の写真では1.5~2倍のどっさり重たそうなクリームが乗っている。これを同じ商品だと言うのは確かに無理があるだろう。

コメダは少ない注文でも満足できる優良店であり、写真より実物がデカいという珍しさからネタとしてもおいしい店なのだが、ネタ面の人気にはこれまた「そうはならんやろ」効果が隠れていると考えられる。写真から想像されるクリームソーダと、実際のクリームソーダが明らかに違うことは、ある種の「文脈の断絶」である。そしてコメダの店員は、写真より明らかにボリューミーなクリームソーダを何事もなかったかのように客のテーブルの上に置く。この間、客は目の前のクリームソーダに呆気にとられることしかできず、完全に置いてけぼりにされてしまう。要するに、コメダとは明らかにおかしい写真と実物の差異が当然のものとして提示される体験であり、これに対し一部の人々はギャグ漫画と同じような面白さを感じるのではないだろうか。

4. クマのセールスお断りステッカー

玄関に貼る動物イラスト入りのステッカーを製作しているJDMグッズさんが発売している、セールスお断りステッカーなのだが…
「ペットを刺激しないで!」という文言とクマのイラストがあまりにも不釣り合いである。商品紹介いわく「訪問者に、もしかしたら、このお宅には「猛犬」よりも怖ろしいペットがいるのかもしれないと『妄想』していただきます。 悪質セールスに、ガオッ!」とのことだが、いやいや、そうはならんやろ。もしセールスに「いや流石にクマはおらんやろ」と冷静に考えられてしまったら、このステッカーはもはや警告として意味をなさず、ガン無視でインターホンを鳴らされてしまうだろう。これはあまり良くない「そうはならんやろ」効果の例である…


と、思ったそこのあなた。よく思い出してみてほしい。
「そうはならんやろ」は「なっとるやろがい!」を誘発するということを。

たしかにペットとしてのクマ、あるいはクマと同じくらい凶暴なペットを想像させることは難しいが、それならそれで別の方法で「ステッカーが『事実』である」ことを妄想させることができるのではないか。たとえば、「クマと同じくらい恐ろしいオヤジが住んでいる」という可能性。怒った時に獣のように凶暴になり歯止めが効かなくなるから、家族が「刺激するな」と警告しているとしたら、セールスは「そんな奴と話したくねぇ…」と思ってくれることだろう。犬と似ているオオカミのように微妙に現実っぽいデザインを用いるよりは、クマのように思い切って大胆な象徴やイメージを用いることで、相手に最悪の可能性を想像させることができる。このセールスお断りステッカーは「そうはならんやろ」だけでなくその返しの「なっとるやろがい!」をも防犯に生かした優れたデザインだったのである。


(ㅎ_ㅎ)  作った人、そこまで考えてないと思うよ
(´・ω・`) ・・・・


まとめ

 本記事では「そうはならんやろ学」と称して、「そうはならんやろ」と言いたくなる場面の具体的定義、創作物と「そうはならんやろ」の関係、現実社会で活用されている「そうはならんやろ」の在り方について検討してきた。全体を通してみると、大事なことは「あえて文脈を無視したり、おかしな物事のつながりや前後関係を提示することで面白さを演出でき、それを活用することで印象深いデザインを作ることができる」ということくらいしかなかったように思う。しかし、「そうはならんやろ」という一つの言葉をここまで掘り下げたことにはそれなりの意義があったと信じたい。

 さいごに少しだけ、なぜ私がこの記事を書こうと思い立ったかを話したい。 

 世の中は「論理的なつながり」に支配されている。問題が発覚した際は、その原因を徹底的に追求せよという声が上がるように、整合性がとれた出来事の前後関係が存在することは当たり前で、それを明らかにすべきだという信念の下で人間は思考し、行動している。私が今存在する学術研究の世界はその極致とも言うべき場所だ。研究では、自らの主張を裏付けるために先行研究を必ず引用する、実験結果から読み取れないものを考察に含めてはいけないといったルールが存在する。実験結果についても、先人たちが定義した「統計的有意水準」をクリアしなかったものは考察の対象外となる。先行研究や実在する実験結果を参照しない仮説・考察はそもそも仮説・考察ではなく、評価されることはない。「論理的なつながり」をもたないものは、そもそも事実であるかを審査される資格すら持たないのだ。

 もちろん、「論理的なつながり」がなければ学問どころか人間の世界そのものが破綻してしまうため、そこに抗議しようと言う気は全くない。ただ、普段、誰もが納得できるような「正しい」つながりを求めて思考していると、時々、非現実的な妄想や、根拠のない噂話や、無理矢理こじつけたような意味といったものが、とても愛おしく感じられる瞬間があるのだ。勿論人を傷つけるようなそれらは認められないが、そうなる・ならないといった現実的な思考を超越して、あるものないものが自在に連結していき、世界があり得ない方向へ書きかわっていったり、「根も葉もないもの」から花が咲く様を空想するのは、実に愉快ではないか。そして私は、言葉で説明できるような理論がなくても、強引に物語を次の展開へつなげることができる「そうはならんやろ」の世界 ーーそれは原動力を必要とせず、かつなんでも原動力として取り込み無限のエネルギーへと変えてしまう世界でもあるーー を夢見たのである。


また機会があれば、せっかく作ったこのアカウントで何か書こうと思うので、お会いすることがあったら、その際はよろしくお願いします。

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