『ハッピーアワー』は濱口竜介にとって、あるいは日本映画にとってメルクマール的作品だ。

1.序論

 『ハッピーアワー』はただ素晴らしい映画なだけでなく、優れて「濱口映画」である。

濱口竜介の最新作、『ハッピーアワー』では壮年期の女性4人の顔を通じて「関係性」が描かれる。濱口竜介は、過去作品『PASSION』『親密さ』においても、「関係性」について扱ってきた。その意味で、『ハッピーアワー』は『PASSION』『親密さ』に続く「関係性」連作の三作目と位置づけることができよう。本作は濱口が過去に自作で用いてきた主題やディティールが巧みに変奏されながら非常に多く用いられる。それらは単なる過去の再生産のレベルに堕すことを拒否し、監督が新たに獲得した演出における方法論と相まって、新たな意味合い・演出上の効果が付与されている。本稿では、『ハッピーアワー』を過去の濱口作品と比較・再検討することによって、『ハッピーアワー』が濱口竜介のフィルモグラフィーにおいていかなる意味合いを持つかを論ずるものである。

2.本論

2-1.『ハッピーアワー』とは一体何なのか

 『ハッピーアワー』は第68回ロカルノ国際映画祭において主演女優賞と、脚本に関するスペシャルメンションを受賞した。脚本の強度もさることながら、「素人」4人に主演女優賞が与えられたことは、濱口が独自に作り上げてきた方法論が世界に認められたということである。では、その方法論とは一体なんなのか。2014年の2月、ちょうど『ハッピーアワー』の原題、『BRIDES』の公開朗読会が行われた後に筆者が監督に行ったインタビューにおける発言を抜粋する。

あるキャラクターというものが設定されたときに「この人はこんなこと言わない」っていうキャラクターの身体を感じることがあるんですよ。言わないこととか言えないこととかがキャラクターによって出てくるわけです、そのとき、そのキャラクターの身体が出て来るわけです。それは単純に僕の身体と一緒ではない。なんでも思っていることを言えるわけじゃない。それは実際に生きている僕らと一緒でね。絶対にこのキャラクターは基本的には言わないこととかやらないこととか、そういう重みというか重力みたいなものがあって、でもドラマを進める上で、その言わないことを何とか言わせたいし、言ってもらわないと困る、みたいな無理があったりするときに(笑)、そのキャラクターに話し合わせることがあります。お互いに尋ね合うっていうか、聞き合う時に出てくる、誰のものとも言いがたい言葉みたいなのがあります。そういうものは、普通の会話でもありますよね。二人で、一つのことを話していると言うか。そういう時間っていうのはとても濃密な時間でもあるわけです。「今日めっちゃ話しちゃいましたね、気付いたらスタバで朝でしたね」みたいな。普通に皆さんの身にもきっとあるんじゃないかなと思うんですけど、それまでの日常的な自分が解けて、「あ、自分はこういうことを考えてるんだ」っていうのが、他人に触発されて出てくる時間というのは生活の中で好きな時間です。人生の中でも、最も素晴らしい瞬間の一つという気がする。そういうことを感じる時に思っていたのは、「今ここにカメラがあったらそれだけで映画」ということです。でもカメラをある程度使って理解するのは、カメラが回っていたらそういうすばらしいできごとは、基本的に起こらないということです。カメラの前で一体それをどう起こすかかということが、ずっと課題であるという気がします。

また、映画の前提となったワークショップにおいては次のように述べている。

現代の人はカメラっていうものがどういうものなのか意識するにせよ、しないにせよ知っているわけで、そうなるとカメラがあるときに先ほど言っていたような「普段の会話の中での素晴らしい瞬間」みたいなものは萎縮してしまうというか、起こらなくなってしまいます。それは、映された人がすごく大事だと思っているものを差し出す上でのリスクがとても大きいからです。でも、僕はそういうリスクを抱えた中でも、大事なものをこちらに差し出してほしいと思っていて、こちらとしては、そういうものが映れば、それはこの世の価値の証拠映像になる気がしてるわけです。カメラというのは当然、威圧的な、暴力的なものなんだけれども、逆説的には「自分の良さ」をどこまでも率直に、いつか誰かに届けてくれる装置でもあるわけです。どうしたら、カメラの前でそういうことが起こるんだろう、しかもそれを何度も繰り返せるんだろう、ていうことをこのワークショップではずっと試行錯誤していた気がします。

『PASSION』において、カメラポジションを斜めに置いたことにより役者の演技を「掠め取る」感覚を感じた濱口竜介は、『親密さ』において、役者の真正面にカメラを置き、カメラの暴力性に役者を対峙させ、カメラと役者の関係性に一つの回答を与えた。『東北三部作』において、この方法がプロの役者でなくとも成立すること、即ち「素晴らしい瞬間」はカメラを眼前においても起こりうることを確信した濱口は、『ハッピーアワー』においてもこの方法を採用する(有馬温泉での麻雀のシーンにおける切り返し、朗読会後の打ち上げにおける切り返しなど)。「素晴らしい瞬間」を阻害する装置であるカメラを、役者が最も意識させるような場所に置くことによって逆説的に「素晴らしい瞬間」を復活させるこの手法は(少なくとも現代においては)彼独特のものといえよう。

本作における達成はカメラポジションばかりではない。本作における最大の特徴は、繰り返しになるが、主演女優4人を始めほぼ全ての人物が演技経験のない「素人」であることだ。カメラの前で演ずることとはなんなのか。いや、そもそも演ずるとは一体なんなのか。濱口は自ら発したこの問いに見事な回答を見せた。彼の出した回答とは、役者とキャラクターを緊密な関係に置くことである。一見、どんな映画にも適用されるようなこのプロセスは『ハッピーアワー』においては徹底されている。もう一度、濱口の発言を引用しよう。

あるキャラクターというものが設定されたときに「この人はこんなこと言わない」っていうキャラクターの身体を感じることがあるんですよ。言わないこととか言えないこととかがキャラクターによって出てくるわけです、そのとき、そのキャラクターの身体が出て来るわけです。それは単純に僕の身体と一緒ではない。なんでも思っていることを言えるわけじゃない。

「役者は『出来ません』と言ってはいけない」という神話は殊に邦画においては支配的な感覚であったように思われるが、濱口は「出来ません」という演者の生理を積極的に許容している。「出来ません」を許容しないこと、本来別物である役者の身体とキャラクターの身体を無理やり同一化させようとすることは画面に「アク」を生む。そのアクは暴力的装置であるところのカメラによって切り取られ、物語の虚構性を補強してしまう。それは作品全体の魅力を削ぐものであるが、残念ながら現在の多くの邦画はその事実に自覚的でないように思う。濱口はそうした「アク」を一切画面に出さない。巧みなストーリテラーである濱口は、キャラクターを尊重する。演者と同等に、尊重する。だから、キャラクターが拒絶する言葉はカットするし、役者が拒絶する言葉もキャラクターに言わせない。しかし、その作業には二つの困難がつきまとう。一つには、物語の合理性との両立の困難である。この困難は、濱口のストーリーテリングの巧みさにより慎重に回避されている。もう一つはキャラクターと役者が緊密な存在になることを阻害するのではないかという困難だ。限られたテキストの中であるキャラクターを完全に理解することは困難でありながら、「出来ません」を受け入れることは、即ち役者とキャラクターの関係性が深まらないことにも繋がる危険を内在している。この困難を乗り越えるプロセスの一環として、本作においては脚本を支える「サブテキスト」が大きな役割を果たす。彼自身の著作『カメラの前で演じること』には多数のサブテキストが収録されている。彼の著作から一節を引用する。

少なくない人物が登場する中で、どのキャラクターも脚本上描かれない「裏」の時間を過ごしている。サブテキストの役割は、その「裏」の時間をどのように過ごしたか提示するものとなった。その結果、サブテキストは、五時間を超える分量の脚本とほぼ同程度存在している。

このサブテキストが演者たちにとって大いに参考になったであろうことは、彼女ら/彼らの演技を観れば自明ではなかろうか。濱口竜介は、2015年3月に行われたワークショップにおいて、ジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』のジーナ・ローランズの演技と、ロベール・ブレッソンの『ラルジャン』の、主人公をかくまう老婦人の洗濯のシーンを挙げた。前者は、キャラクターが自己の身体を支配した演技の状態の模範として、後者はキャラクターと自己の同一化としての演技の状態の模範として提示されていた。濱口竜介は『ハッピーアワー』において、自然な身体であるところのブレッソン的な演出を志していたのではないかと推察される。だが、『ハッピーアワー』において提示された演技は、ブレッソン流の節制された厳格なミニマリズムとも明らかに質が異なっている。『ハッピーアワー』において見られたのは、演者と監督の、キャラクターへの圧倒的な「尊重」、また監督から演者への圧倒的な愛である。役者とキャラクターは別人である。その前提を役者全員が共有し、一人一人がキャラクターを尊重すること。演者が、自らの身体を依り代としてキャラクターの人生の「語り手」となること。監督が素人である演者の「素晴らしさ」を信じ切ったこと。キャラと演者、演者と監督、監督とキャラとの信頼関係の応酬によって成り立つこの空間において、カメラの暴力性は超越され、カメラの前には素晴らしい時間が差し出されることになる。それによってカサヴェテス的でもブレッソン的でも、あるいは彼が現在目指しているというオリヴェイラ的でもなく、濱口竜介的としか言いようのない世界が形作られることとなった。『ハッピーアワー』の魅力を最も支えているものは、脚本の強度でも、演技やカメラの素晴らしさでもない(勿論それら一つ一つがかなり高い水準にあることも蛇足ながら付け加えておく)。映画に携わる人々が、役者として/人間として相手を尊重しているという感覚、純粋に幸せな撮影現場であったであろうことまでが画面越しに伝わってくるような、そんな感覚なのだ。

2-2. 「関係性」の変容について

『ハッピーアワー』においては、彼の過去作品と類似したシーンが多くある。例えば、芙美が早朝に帰ってくるシーンから『PASSION』のラストシーンを想起するのは容易だ。『PASSION』においては、お互い違う相手と夜を過ごし、別離するかに見えた二人が(およそ長続きする関係とは見えないが)再び付き合い始めるところで映画が終わる。『ハッピーアワー』においてはどうか。夫である拓也は他の女性と夜を過ごし、妻である芙美は一人で歩いて帰る。朝焼けをバックに芙美が一人で帰宅するシーンは、即座に『親密さ』第一部ラストにおける夜明けの長回しを想起させる。『親密さ』で描かれたのは関係性の修復であるが、このシーンで描かれるのは関係性の破綻である。このひとつ前のシーンで、小説家・能勢と芙美の夫・拓也が描かれ、その対比として描かれるこのシーンにおいては既に関係性が破綻し、芙美が一人で生きていくことが示唆される。ここにおいて既に破綻することは自明となっているこの関係性において、あとは「どういう破綻の仕方なのか」だけが観客の興味の対象となる(これは芙美自身の口から語られる)。最終的には、芙美の想像を越え、拓也の死という、不可逆な別離をもって、関係は永遠の破綻を迎える。

他にも、朗読会後の打ち上げのシーンは『PASSION』における本音ゲームのシーンに類似しているし、後述するが、電車を介して関係性の変容が綴られるのは濱口作品お馴染みと言える。

『PASSION』『親密さ』『ハッピーアワー』の三部作において、一貫して描かれるのは「関係性の脆さ、危うさ」であるが、そのテーマに対しての答えは三者三様である。『PASSION』においては、そのテーマへの答えは出されず観客に投げられていたように思う。『親密さ』では、「関係性は脆いながらも、別離したり、再び交わったりするものであり、人はその応酬の中で生きていく存在である」と、「関係性への信頼」が一応の決着として見られた。『ハッピーアワー』に濱口が出した答えは、「関係性は脆く壊れやすいが、更に新たな関係性を人と築いていくことで人は新たな自分に生まれ変わっていく」ことではないか。30を過ぎて出会った最高の友達たち。ずっと傍にいるはずだった夫との関係の崩壊。おそらくラストでは主人公の4人の関係も相当危ういものとなっている。が、彼女たちはその別れと孤独をまるごと引き受け、新たに人間関係を築いていくだろう。物語の序盤でうまく煙草をつけられなかったあかりが、ラストで骨折しながらも堂々と煙草を吸うシーンは、その意味で示唆的だ。既存の関係性を追い求めることなく、未来を志向していく彼女たちの姿勢の力強さがラストシーンのあかりに託されている。この、『親密さ』とは異なる形で提示された「関係性への信頼」が、現時点において濱口が出した答えであるように思う。

2-3.濱口映画と「移動」

 濱口映画において乗り物は関係性を変容させるアイテムとして非常によく使われる。『THE DEPTHS』のラストシーンにおける車、『親密さ』『何食わぬ顔』における電車、『PASSION』におけるバスなど、例を挙げると枚挙に暇がない。『ハッピーアワー』においては新たに「船」が登場するが、最も重要な乗り物として登場するのは電車である。電車は特殊な装置である。乗車し、ドアが閉じてしまったら電車は否が応にも動き出す。ホームに残された情念や情動を置き去りにして、電車は出発する。また、電車内に残された情念や情動はホームのあずかり知らぬところである。あるいは、電車に乗れなかったことで起こる出来事も存在する。電車とは運命に、あるいは人生に似ている。

『ハッピーアワー』においては特に

① ワークショップの打ち上げの後、純と桜子がホームにいるシーン

② こずえとの会食後、芙美が電車に乗るシーン

③ ②の直後、風間を発見し、桜子が風間と同じ電車に乗るシーン

が特徴的なシーンとして挙げられよう。いずれも電車という乗り物の特質が浮き彫りになるようなシーンである。

①について。自らの秘密を明かすも、その事実によりあかりに激しく詰問された純は店を飛び出しホームで桜子と対話する。電車が来るが、純は乗車することができず、ホームに倒れこみ、そのまま桜子の家に泊まることになる。その後のシークエンスにおいては、良彦が純に、桜子をもう誘うなと忠告し、元からの約束であった有馬温泉への旅行を最後に純は失踪する。純が問題なく電車に乗っていたら。桜子の家に泊まらなかったら。純が失踪したことにより、残された三人の人生は大きく動き始めた。この意味において、電車は重要な意味を持っていたと考えられよう。

②は『親密さ』第一部ラスト付近、電車のシーンの変奏と位置づけられる。『親密さ』では同じ劇団内の恋人・良平と令子のシーンがある。喧嘩をして家を飛び出し電車に飛び乗った良平をその恋人・令子が追いかける。令子は隣の車両から良平の元に近づき、二人は直後丸子橋の上を対話しながら歩き、和解する。本シークエンスでも、店を飛び出た芙美を追いかける桜子は、隣の車両から芙美の乗っている車両に近づき、対話を交わす。しかし、後述するが、ここは単なる『親密さ』の模倣に留まっていない。

③は濱口映画において新たな達成であるといえよう。ワークショップの参加者、風間は打ち上げの前に桜子を食事に誘っていた。好意を向けられていると知っていながら、桜子は風間の誘いに乗り、芙美を置いて風間と同じ車両に乗り込む。乗り込んだ瞬間、芙美が声をかける間もなく電車は出発する。ホームには、直前まで風間と同乗していた淑恵と芙美が残される。また風間と淑恵(サブテキストで、淑恵は風間に好意を寄せていることが描かれる)の関係性の破綻をもが描かれる。②において、『親密さ』のように、芙美と桜子がより親密になっていくのではないか・あるいは芙美・拓也の関係が修復されるのではないかなどと考える観客の予想は裏切られ、画面全体に緊張感が走る。事実、このシークエンスのあと物語はラストに向けて大きくサスペンス調にドライブしていく。

3.結論

 濱口竜介は進化し続ける監督である。「顔」「カメラ」と対峙した『東北三部作』、「身体」に対峙した『不気味なものの肌に触れる』と、近年の仕事において濱口は自身の最大の武器である「言葉」から敢えて離れ、新たな表現方法を貪欲に獲得しようとしている。その過程を経て、現時点で彼のライフ・ワークとも言うべき「関係性」について描いた『ハッピーアワー』は濱口作品の一つの集大成であり、彼のフィルモグラフィーにおいて一つのメルクマールとなることは論を待たないであろう。

 私は、初めて『親密さ』を観た時に、濱口竜介は現代日本でトップレベルの監督であることは勿論、今後確実に日本映画史に名を刻む監督になることを予感した。その予感は『ハッピーアワー』鑑賞後、確信に変わった。濱口監督の今後の更なる活躍を願って、本稿の筆を置くこととする。

4.参考文献

濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること』(2015 左右社)

【映画企画】濱口竜介監督(映画監督)http://kenbunden.net/general/archives/4530(最終閲覧日:2015年12月14日)

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