2次元と3次元、平面的と立体的、視聴と体験

今日、イングレスをつくったハンケさんに話を聞いたときに考えていたこと。

これまでのテレビは
お茶の間におかれた2次元的、平面的なもので
一方的に視聴者に向かって、放送しているものだった。
演劇のステージ的というか、体育館のステージ的というか。
演じる側と観る側という構造。お金を払わない映画のようなものだった。

自分もリビングでご飯をたべながら、テレビを見ていたし、今もたまにそうする。
そして、当時はスマホやSNSなんてないので、やることがなくて、暇だったのかもしれない。

昔、テレビの黎明期、
テレビ受像機は高価で台数も少なく、テレビは街頭にあって、みんなで感動を共有していた。
「大人数体験型」だった。

そして、今はスマートデバイスの普及とテレビが1部屋1台になり完全に個人のものになっている。一人ディスプレイ数台時代。
ラジオ的なものに近いのかもしれない。
ラジオよりは、時間占有感覚が強いメディア。
視覚と聴覚をつかって楽しむものなので。「個人的体験型」になったのかも
しれない。

先日、下北沢で
キングコングの西野君が能の舞台構造の話や歌舞伎の花道の話をしていた時、
2次元的な、平面的なテレビの終焉を感じざるを得なかった。
ここには、未来がないかもしれないのではなないか。
TBSの角田さんも「これまでのテレビ」
に絶望したのかもしれない。その「これまでのビジネススキーム」も含めて、「これまで」に。

変化はその中心から、周縁に向かうまでにはかなりの時間差があり、
まだ、周縁の世界には2次元的な、平面的なテレビが王道でありつづけていて、
祖母の否かでは、テレビはまだお茶の間の真ん中に置いてあるし、お茶の間が
まだ、存在している。
お茶の間意外のパーソナルスペースがないし、東京ほどSNSをする気にもならない。

視聴率という貨幣も周縁ではまだ機能していると思う。スキームが変わらないのも
このためだ。

しかし、中心においては、3次元的、立体的なテレビが求められており
パーソナルなメディアの集合体がマスとなっているように思える。マスという概念ではなく
個の集合体であるということ。

これからのテレビ制作者は、その変化を理解しながら制作をしていく必要があると思う。

テレビは体験するものに変化していくのか。
テレビを中心とした「街」のようなものを作るべきか。
そんな予感がする。

なぜ、FODでは、ニッチなものに取り組むのか?
といえば、そのパーソナルを目指しながらマスを志向していく試行錯誤であり、
いわば、缶のハイボールをつくるのではなく、ウイスキーの原液をつくることで
それを、ソーダで割って、レモンを絞って、おいしいハイボールを作って、
それを大量生産する流れでの缶のハイボールにしていく作業なのだと思う。

そして、もはやテレビ番組を制作することとは、80%は制作者がつくり、20%は
視聴者が作るものになっていくのかもしれない。
もともとの番組観覧もそういうことなのかもしれない。

テレビももっと試行錯誤しないといけない。

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