曲がれ! スプーン

 戦闘がなくて、おもしろかった。

 アメリカ映画によく、誰かを笑いものにしたり、勝利することで高笑いするようなのを、コメディと称するケースがあるが、笑いのレベルが低いと思わざるをえない。日本の喜劇では、主人公の悲しいさまが笑いものになって、見ていてつらくなる映画が、昭和時代に「喜劇」とタイトルに付されていたりした。
 コメディとか喜劇とかいうのは、見ていて心がほがらかになるものかと思いきや、必ずしもそうではない。外国の映画やジョーク、特にアメリカンジョークというと日本では笑えない話という認識が定着している。コメディ映画も、チャップリン以来、悲しさをまとっている。日本映画の喜劇が悲しいのは、一つにはその影響だろう。
 日本でも笑いの伝統には、吉四六話のように、ヨーロッパのオイレンシュピーゲルと類似した頓智話があり、それは誰かをやり込めて笑ったり、逆に主人公がまぬけな失敗をしたりして、笑いの基本に洋の東西の違いはないと知れる。
 それにしても、外国の哲学者の「笑い」という本を読んでも、なんかピンとこなかったり、映画館でコメディ映画を見てると、外人の人の笑い声を聞いて、日本人とツボが違うんだと感じさせられたりすることは、これまで少なからずあった。

 この映画を見て、大爆笑したわけではないけど、なんか愉快な気持ちになった。超能力者の集まりに紛れ込んでしまった普通人と、超能力者たちのやりとり。この雰囲気が、笑える。
 笑える、というのは、おもしろいことを言うからではなくて、笑える空気を作り、笑える間ができた時に起こる身体現象だ。
 エスパーの存在を隠そうとしているところに、テレポーテーションの人が飛び込んできたシーンなど、その空間が形成されたところに、桂枝雀の言う緊張の緩和が見事に起こされていた。
 こうした場の空気が、文化が違うと分かりにくいから、笑いは国境を越えにくい。洋の東西を問わずおもしろいと思える機知は、翻訳でも理解できるが、理解はできても笑いが生じるとは限らない。心地よい笑いは、微妙な空気感に同居して、間を共有できて初めて生じる。それは、同じ言語環境、文化状況に育たないと、分かち合いにくい。同じ日本に住んでいても、大阪の人と東北の人が、笑いの質が異なったりするのは、避けられないことだ。

 この映画が広く笑えるかどうかは分からないが、少なくとも自分は楽しい感じで見ることができた。コメディというと、何回笑ったかといったような判断基準を出されることもあるが、笑い声が出る出ないにかかわらず、楽しい気持ちになれたらコメディだと思う。この作品は、その点において、良質なコメディだ。


 ロケ地の四国は、監督・本広克之の故郷か。五重塔があって、お遍路があって、「ことでん」の文字が見えたから、四国だと分かったけど、すごいレトロな町だ。善通寺だけでなく、この商店街は観光資源だ。もうすでに活用されてるんだろうけど、行ってみたいと思った。
 長澤まさみが出てた映画で、こんな雰囲気のコメディがあったように思う。でも、思い出せない。
 ドラえもんが普通に使われてたけど、エンドロールで小学館の文字が見つけられなかった。もう日本でドラえもんは、ディズニーなんかとは違い、へのへのもへじクラスの普遍性を体したということか。

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