言わなかったこと

ある日、私より四十個ぐらい年上の男性から恋バナを聞かされていた。職場で席が近かったばかりに。その男性は既婚者でお子さんがいて、趣味が恋愛だと公言していた。その時は彼よりも三十個ぐらい年下の女性に恋しているという話だった。

私は、困るなぁと思いつつ、彼の話を聞いていた。

「前に会った時にその彼女が言ったことがね。あんまり素敵でおしゃれで、グッときちゃったんだよ」
「へぇ」
「本当にね~わしづかまれちゃう。ああいうこと言われると」
「へぇ」
「何を言われたかと言うとね」
「へぇ」
「「知らないことがある方が楽しいでしょ」って」
「?」
「一緒に飲んでね。夜遅かったから家まで送るよって言ったら。そう言われたんだよ。「知らないことがある方が楽しいでしょ」って。だから送らなくていいって。素敵じゃない?」
「じゃあ、その方のお家の場所は」
「知らないんだよねぇ⤴⤴親しくなっていっても秘密を持ち続けるってさ…いいよね…」
「そっすねいっすね」

言うまでもなく、その方はあなたに家を知られたくないのではないでしょうか。と思っていた。

なんてことは言うまでもなく、彼にとって知らない方が楽しいことなのだろう。言わなかった。

家族と一緒に有名店のアフタヌーンティーに行った。

家族がちょっと席を外してひとりでいる間、店員から驚くべき不快な対応をされた。不快さに驚きすぎて、目玉が飛び出して行って大気圏突破したっきり二度と眼窩に戻ってこないんではなかろうかと思った。

戻ってきた家族から「あれ、どうかした?」と聞かれたが、眼球をおさめて、どうもしない風を装った。こんな店今すぐ出て行ってケンタ食おうぜ。と思っていた。言わなかった。家族はいつも家庭内の時間が楽しくなるよう心を配ってくれている。その日のアフタヌーンティーも何日も前から予約を取ってくれていた。水を差したくなかった。

帰宅後、その店のその店員についてと思しきバッドなクチコミを結構な件数、見つけた。家族は大層店を気に入っていた。また行きたいねとニコニコと言っていた。

二度と行きたくねぇとは言わなかった。他のお店のアフタヌーンティーにも行ってみようよ、とは言った。

うちの猫二頭が並んで窓の外の大雨を見ていた。
熱心なその様子に、雨を見ているのが本当に好きなんだね、という話になった。

二頭のうち一頭は外で暮らしていたことがある。もう一頭は人の手元で生まれてすぐに我が家に来たので、外の暮らしは知らない。

それぞれが雨を見る視線には何か違うものがあると思った。外暮らしから我が家に来た方の猫の目は何かが違う。雨が好き、その一言で終わるものではなくて。
この大雨をしのぐ場所がなければ死ぬことを知っているのだと、思った。

でも急に深刻なことを言い出すのは違うかなと思ったし、猫も、偶然口にして以来いちばんの大好物になったにも関わらず健康上の理由から決して与えられることのないメロンパンのことを考えて神妙な面持ちをしているだけかもしれなかったし、言わなかった。


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