[小説] 第一節 森籠もりの世界 [Traveling!]


 四月上旬は山からの冷たい風に多少辛いものがあったが、部屋の中は昨夜の暖炉の熱によって肌寒さを感じない程度の室温となっていた。
 ミソラは朝日の到来とともにベッドから起き上がり、部屋の空気を入れ替えるため窓を開ける。自然の空気は好きなのだが、氷水を浴びたような風はあまり好きではなかった。しかし毎日見飽きない山の景色や、生き物のさえずりを聞きながら朝を迎えられるのは筆舌し難い多幸感をもたらした。
 窓下から自然とは程遠い匂いがした。人が作ったその匂いも、一日の始まりを告げる立派な日常だった。

「ミソラ、朝ごはんできたわよ」

 庭で朝食の準備をした姉がいる。テーブルクロスを敷いたテーブルの上に姉の手作り料理が並んでいた。

「ハーブスコーンとコーンポタージュですね。兄さんは、また朝寝坊ですか?」

「夜中から作業に夢中になってるみたい。悪いけど呼んできて。今日こそは庭掃除に駆り出してやるんだから」

「兄さんが訊くような方だといいのですが、なんとか説得してみせます」

 ミソラは呆れ返りながらも、羽織を着て玄関をでた。サンダルでは足元が冷えてしまう。早足で裏庭にあるガレージへ到着し、鉄扉をノックする。

「兄さん、朝ですよー」

 数秒待っても応答がない。これは寝息を立てているに違いないと判断し、ミソラは扉をそっと開ける。するとガレージ内のテーブルで兄の姿を見つけた。埃と鉄っぽい匂いに顔をしかめるが、意外にも外よりかは暖かい。兄が一日中引き込もれるように、ガレージも断熱仕様になっている。そのせいで、不規則ない生活を送り始めているのが、我が兄に対する心配だった。

「兄さん?」

「ん、んんぁ、ミソラか。一日はあっという間だな」

「昼寝のつもりですか。もう朝です」

 筋肉隆々とした肉体に、オーバーサイズのツナギを乱雑に着ている。今回は油臭さを感じない。どうやら、ノートPCでプログラムを組んでいたようだ。様々な配線が謎の機械につながっており、見るだけで頭がこんがらがってきそうだ。

「待ってくれ。切りの良いところまで進んでんだ」

「お仕事ならお待ちします。趣味ならただちに向かったほうがいいですよ。姉さんのご飯は出来たてが一番なんですから」

「よし、今すぐ行くか」

 食い意地の張る兄の制御の仕方は簡単だ。食べ物と機械をちらつかせば、しつけの届いたペットのようになる。ミソラの家では一日に一回は家族全員で食事をする日課だ。  

 田舎の土地を買い取り、人里離れた屋敷での暮らしが始まって三年が経とうとしている。ミソラの年の離れた姉兄の二人は、「宗蓮寺グループ」という日本有数の大企業の中核を担っている。亡くなった両親の後を継ぐ形で敏腕を際限なく振るい、過去最大の利益を叩き出していった。

 だがある日、二人は自らその立場を親戚に譲り、ミソラと共に隠居に近い生活を送るようになった。以後、数年に渡り、穏やかな生活を送っている。
 朝食に舌鼓を打ちながら、ミソラは春の往来を予期させることを尋ねた。

「この辺りではそろそろ桜が咲く季節です。お二人は、いかがお過ごしになるのでしょうか?」

「まあ、観光客が来る季節だしな。花見するなら、一山越えた辺りが良い気がするが」

「わたしは賛成だけど……。ミソラは、遠出だいじょうぶなの?」

 端切れが悪くなる姉の言葉に、ミソラは昨年と同じように伝える。

「私は平気です。桜を観に行きましょう。兄さんが言う場所なら、人通りも少ないと思いますし」

「でも、ミソラの身になにかあったら、心配よ」

「そのときは二人に守ってもらいますから」

 自分の存在が彼らにとって負担になっていることはわかっている。だからこそ、足手まといを装う。被害者面をするようで心が痛むが、我儘を押し通すのに理屈は必要ないだろう。今回はみんなで楽しむ目的だからだ。
 その妥協案に、姉はうなずいた。

「じゃあいってみましょうか。ミソラたってのお願いだもの。聞き入れない方が罰当たりだわ」

 朝食を片付けたあと、三人で庭掃除を正午まで行った。自然豊かな地域には、ときたま動物たちが遊びにやってくる。庭で粗相をすることもあるので、その片付けを定期的に行い、住むものとやってくるものにも快適な環境を保っている。

 正午以降はそれぞれ自由な時間を送っている。姉は書斎で仕事をし、兄も車で買い出しに出かけた。
 ミソラは自室でオンラインでの授業を受けていた。姉の母校の教師が登壇し、一対一という形で学校教育を学んでいた。テストでの成績と成果物の提出によって単位を貰えるのだが、学校行事に一年で3分の1以上の出席が必要なので、卒業はできないまま一年の留年を果たした。ミソラも高校卒業資格は必要ないと考えていて、自分の能力で、十分に仕事ができる実力は持っていた。

 授業が終わり、一息ついたところで、ミソラは部屋の隅にある漆黒のグランドピアノへ向かった。カバーを取っ払い、ピアノ線と白と黒の鍵盤を整える。椅子に座り、右足をペダルヘオク。弾く曲は決まっていない。既存の曲か、未知の曲かのどちらかだ。

 迷った挙げ句、ミソラの指は規則性のある動きを始めた。鍵盤が忙しく沈み、それと併せて伴奏が響いた。
 はじめてミソラが作曲を手掛けた曲だ。ある意味、ミソラの人生を体現している。もともと歌唱曲であり、ピアノのソロで弾くことはあまりない。なので伴奏という形にどうしてもなってしまう。

 ミソラが制作した楽曲はどれも大ヒットを記録した。趣味で始めた作曲は、いつしか自分を取り巻く大きなプロジェクトへと発展していった。指が当時の音を奏でる。音楽とともに披露した、染み付いた一連動作が過ぎった。一定のリズムで全身が愉快に踊り、喉奥からメロディが溢れ出してくる。
 曲のラストのサビに入る前に指が動かなくなった。急に体から這い上がる寒気に自分の方を抱いてしまう。

「……何も、変わらない。そうでしょう。だから、大丈夫」

 もう、あんな目には合わないから。胸中で己を励ますように語りかけていくと、しだいに緊張が解けていった。平穏を取り戻したミソラは、ふらつきながらベッドへ仰向けに寝転がる。

「大丈夫、姉さんと兄さんが、私を守ってくれるから」
 ミソラは二人の姿を思い浮かべながら、穏やかな毎日が続いてほしいと願っていた。

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