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世の中には正解があると思っていた時の話

学生時代からずっと、間違うことが怖かった。反対にいえば、正解だけを求めて生きてきた節がある。新卒で始めた理学療法士。勤めていた病院は、新人の症例報告などもあったりして、よく発表させられていた。結局、どんな内容で発表をしたとしても、先輩から突かれまくって、何も答えられなくて終わるという・・自分にとっては何とも地獄の時間だった。

それを経験する機会が多い中、社会人1年目の私は「先輩達の求める正解を探さなくてはいけない」というような考えになった。評価にしても、リハビリ内容にしても、アプローチ場所にしても・・「自分がどう思うか」というよりも「指摘されないように」「怒られないように」「先輩の正解を探そう」と。

でも1人だけ、私が相談したことに対して、一緒に悩んで考えてくれた上司がいた。その時、その上司が考えている姿を見て「正解はないのかもしれない」(そりゃもちろん、患者さんの回復度合いによってはあると思うが)と思った。

・それも考えられるよね
・でも解剖学的にそれはどうかな
・この前こんな症状があるって言ってたよね
・お薬こんなの飲んでいるよね

と「これが正解だろ!」と言うわけでもなく、いや、きっとあったんだろうけど私に考えさせることを教えてくれた。

(そしてこれを書いていると思い出したのだけれど、当時はよく「考えろ」と言われていたな。)

自分の考えや意見をいうことは怖い。間違っていると言われるのも、否定されるのも。でもそれを頭ごなしに押さえつけるのではなく「とりあえず何言ってもいい」→判断はそこから。みたいな受け入れ体制ってめっちゃ大事なのかなと。

まさに今勤めている代表もそうだな。「一緒に考える」という大前提のスタンスを感じさせてくれるからこそ、なんでも話そうと思える。

転職して、今は「仕事相談」に乗る仕事をしているけれど・・改めて意識したいな。まずは全部受け入れますよ、後のことはまたちゃんと事実踏まえて話しますので。今は一旦全部思ってること・考えていること言ってみてや〜
というスタンスめっちゃ重要かも。

大切なのは、そういう人がそばにいるかどうかかな。もし今1人で抱えている方は、まずはなんでもお話を聞いてくれる人に吐き出してみて。


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