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人生丸ごと愛せてますか?自分人生ので勝負する生き方発信ちう。自分に自信を持てるようになった「ありさ」って何者なのか⁇(取り急ぎざっくりVer .)

はじめまして。ありさです。

いきなりですが、私はきっとどこまでいってもありさです。

だって自分を信じられるから。

もっと言えば、自分を愛しているから。

なぜそんなに自分に自信を持てるようになったのか?

ざっくり、本当ざっくり生い立ちをお話ししたいと思います。

少しずつ掘り下げていきます。

ありさの生い立ち

1982.9.30生 35歳 三重県生まれ 大阪在住 一人っ子
自営業の父、専業主婦の母の元に生まれる。

父も母も幼い頃に母を亡くした影響とバブル時代が
重なって超過保護に育てられる。

どのくらいのレベルかというと小学生になっても足を出せば母が靴下を履かせてくれてたし、

冬には洋服をストーブで温めてから着せてもらっていた。

流行りのおもちゃはリクエスト前に買われていたし、

洋服だけでも毎月10万円以上買ってもらい、間違いなく普段着っぽくない普段着を着ている小学生№1だったと思う。

社長令嬢として従業員に可愛がられ、人生で一番天狗になっていた。

後にうちの常識は非常識だったんだと気づくが、挙げだしたらきりがない程のびっくりエピソードがある(笑)マジ笑えるやついっぱい。

そんなこんなで、異常な家庭環境で育った私は案の定、世間知らずの箱入り娘、変人としてすくすく大きくなった。

これでもかという程の愛情をいっぱいに注がれ、空も飛べると信じていた私の人生。

歯車が狂い出したのは高校入学前後から。

過保護な母の持病、多発性骨髄腫(脳腫瘍)が悪化し入退院を繰り返すようになり、それまで自分一人で何も乗り越えてこなかった私は厳しい現実を突きつけられる事となる。

同時に父の会社が時代の変化に対応しきれず、経営が厳しくなっていった。
父は看病と仕事の繰り返しで家では寝るだけの様な生活。

家族の距離は開いていった。

高校3年になって部活中に不調になったり倒れるようになり、骨髄の低機能化による貧血と診断される。

父と母には言えなかった。

心配させたくなかったし、今思うと向き合いたくなくて逃げていたのかもしれない。

私は逃げるように大阪の看護学校に入学し、両親に何もできない無力さを味わわせる訳にはいかないとひっそりと病気と共存しながら生活することとなる。

今思えば、神様が山の乗り越え方を知らない私に経験値を上げるきっかけを一気にくれたのだろう。

過保護のままでは自分に自信を持てなかったから、未来からの試練だと確信している。

22歳で結婚・出産 悪化する病気と闘いながら子育て・仕事を続ける。
この頃から主人の不動産業に関わり不動産の勉強や手伝いを始める。

当時大HITした「金持ち父さん貧乏父さん」を読み、実業家・投資家を将来の視野に入れ始める。

23歳 子供が8カ月の時看護師復帰する

27歳 2人目出産 ママさんバレーをはじめ、息抜きを見つける

29歳 人は最期どう死ぬのが最善か?を知る為に看取り専門のホスピスで働き始める

31歳 抗がん剤治療開始 生きる気力を亡くすほど壮絶な闘病生活 抜ける髪を剃りウィッグで過ごす 治療を放棄しフィリピンへ留学する 下の子供に髪の毛のないママが怖いと言われショックを受ける 父から仕送りの催促が頻繁になる。

32歳 2000万円程の投資詐欺に遭い2.3日程途方に暮れる。起業しなければ生活が出来なくなり、看護師として夜勤をしながら日中は人と会う生活を続ける。ご縁があって資産形成のスクールオーナーとなる。

この頃から"お財布の女神”として活動し始める。

33歳 9月末のバレーボール練習中に大腿部の違和感を感じる
仕事が多忙すぎて整骨院に行くなどしてだましだまし過ごす
全身の血管から内出血し歩けなくなり緊急入院。

 2ヶ月に渡る長期入院
始めはFBもブログも書かず回復するどころか悪化する病状に絶望する。
2週間程して自分が生きた軌跡を残したいとブログ再開 

ビジネスパートナー達に指導するなど人と交流するようになる 

徐々に面会者も増えサプライズを仕掛けられたり部屋を飾り付けてもらったりする中で小さな喜びを見つけるようになる。 

大腿部の筋膜からの出血の影響で歩行が出来ず車いす生活 

途中で心斎橋に事務所を設けたいと思うようになりこっそり銀行担当者と話したり 外出禁止令を無視して事務所見学に行ったりするようになる。テヘ

退院を視野に入れ退院後のパーティー粕谷亜理咲復活祭の企画にも本腰を入れる。
このまま入院をしていても状況の改善は見込めないと判断され自宅療養を決心する。
看護師は歩行状態や体力的に難しいと判断し辞職 

絶対に辞めたくなかったバレーも引退。
入院中に心斎橋の事務所を借り、事業を本格的に開始。

33歳4月 資産形成スクールでは人は救えないと感じ辞め、独立して起業塾を始める。しかし、超感覚人間であるため教えるのが下手&おせっかいすぎて人の成功のチャンスを奪ってしまうという致命的な事に気づき辞める。

その後は、
不動産販売、健康事業部メタトロン事業、医療従事者専門運用アドバイザーとして活動。
34歳 誕生月に法人化

35歳 4月 自分の人生をネタにして生きれば??と多くの人に提案されるようになる。

某日たまたま見かけて気になった箕輪厚介くんのトークライブに参加する トークライブが自由で楽しいものなんだと気づく。

これからの社会はコミュニティーだと確信し、オンラインサロンを立ち上げる。

5月 誰かに何かを教えるのではなく、自分の人生を発信することによって人生を丸ごと肯定できれば最高じゃないかと思うようになる。

こうしてお姫様扱いされて育った私が沢山の試練を乗り越えたからこそ

自分を愛せるようになり、どこまでいってもブレない私になりました。

ママやパパにも感謝だし、試練を用意した未来の自分にも本当に感謝。

で、長年書いてきたアメブロを卒業してnoteに移行したってわけ。

これからは何かの情報を発信したり、教えたりするのではなく、自分の人生や過去を見える化して生きていきたい。

私がまさかアーティストなんかになると思っていなかったけど、

女性にとって自分の人生を丸ごと肯定してもらえるって超理想だと思う。

35歳だってバンドデビューするかもしれないし、映画に出るかもわかんないし、作家になるかもしれない。

やってみたいことは何でも今すぐやらなきゃ、今日は待ってくれない。

そんな新しく、自由で幸せな人生を赤裸々に描いていくのでよろしくお願いします。 

                         arisa22

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