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「クラシック音楽」は万人に「わかる」ものではない

「クラシック音楽」は、残念ながら(と敢えて言う)万人にわかるものではありません。と、『クラシック音楽ファシリテーター』という肩書きを使っている人間が勇気を持って言ってしまいます。

そもそもがキリスト教から発生した音(音楽的)現象が体系化されロジカルに整えられ、ヨーロッパの貴族社会の中でもっとも分厚く育まれ、やがて市民社会を文字通り血を流して勝ち取った人々の手によって継承されてきた成熟した文化であり、宗教観のみならず啓蒙主義思想やらロマン主義思想やら国民国家のイデオロギーやらがべっとりとへばり付いた所産なのであります、世に言う「クラシック音楽」とは。

よって、非常に成熟した(もう一回言う)、大人の”言語”なのであり、そして「日本人」にとっては外来のものでもあるから、たんに「フィーリングでなんとなく気持ちいい、楽しい」といったレベル以上にアプローチするのは、ふつーに一筋縄ではいかないのです(だからこそ一生付き合っていける)。

もちろん、「クラシック音楽」の受容のあり方は100年200年の社会のあり方の中で大きく変化してきたし、教会にも、貴族社会にも帰属しない(ダジャレではない)、現代人の誰にでも開かれたものに「クラシック音楽」はなりました。

ただ、現代のビジネス、音楽産業の一つとして機能させようと、あの手この手の「ライトな方向」で売り出そうとすると、それが行き過ぎてしまうとツラくなる。そもそもが宗教や貴族社会に出自をもつ文化現象を、無理に「だれでもわかるよ」「楽しいよ」と受容させようとすることで、いつの間にか大きな歪(ひず)みが生じ、情報が貧しく痩せたものとして受容されるばかりでなく、ややもすると誤ったウソにまみれた形で飛び交うことにもなってしまう。

そうならないように、「音楽文化を伝える」仕事をする者としては、音楽とそれを生み出した社会や歴史や思想もセットで捉えながら、その内容の質をできるだけ下げずに【翻訳】(広義の)することが必要だと考えます。

私はいわゆる「入門者」や「こども」といったターゲットリーダーに発信する機会を多くいただくのですが、それを自分にとってのライフワークと考えています。そこにはより多くの【翻訳】の創造的な作業が必要になりますし、多いにやり甲斐を感じているからです。

専門用語がわかるサークル内で専門用語で会話できることの気持ちよさや、自分自身の学びも深まる感覚、そしてちょっとした優越感を知らない訳ではありません。

でも一方で、ときに「それじゃわからない」「やっぱりクラシックは高尚だ」などとがっかりするようなお叱りやフィードバックをもらいながら、ときに居心地の悪さも感じつつ、なんとかして「わかりにくいものを、わかろろうとしながら、わかりにくさもひっくるめて対峙してみたい」という思いを、多くの人と共有したいと思うのです。この思いがどっから出てくるのか、自分でもまったくわからないのだけれども。

まだやりたくても手付かずの仕事が、自分にはわんさかあります。
来年は一つ、それを形にできそうな企画が決まっているので、健康一番で、自分の軸足をきちんと感じながら過ごしていこうと思います。

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