「感受性」の素晴らしさ

音楽には躍動がある―――――――――――――――――――――――――

そんなことを、ふと、ラジオから流れてくる、クラシック音楽を聴きながら、感じた。

「季節」というものにも、その「季節」特有の、「躍動・リズム感」を、感じ取る事ができると思う。

例えば、「クリスマス・イブの日」には、「クリスマス・イブの日の「雰囲気」」という名の、「躍動・リズム感」を、私たち人間は、誰しもが、感じ取るという事ができると思う。

「年明けの元旦早朝」には、「年明けの元旦早朝」のそれ―――――「雰囲気」というもの―――――がある。

「真夏の真昼の炎天下」には、「真夏の真昼の炎天下」のそれ―――――「雰囲気」というもの―――――がある。

このように、私たち人間には、その場、その場の「雰囲気」と呼ぶ事ができるものを、肌や耳、目といった人間の持っている、「五感」の機能を通して、それを感じ取ったり、学び取ったり、心で受け取ったりするといったことができる。

これは、私たち人間の持つ、「感受性」のなせるわざだと思う。

こういった、「感受性」と呼ばれるものが、私たち人間には、生来的に備わっている。

その「感受性」があるからこそ、私たち人間は、人生に感動する事ができるし、人生の美しさや、「人生」という言葉を使って、わざわざ、拡大したりしなくても、私たちの「日常」において、ふと、美しさを感じる、という事ができたりもする。

では、こういった、「感受性」を持っていなかったりしたら、私たち人間は、一体、どうなってしまうのだろうか?

恐らく、そういった人間は、その場、その場の「雰囲気」といったものを、感じ取ったり、学び取ったり、心で受け取ったりするといったことが、一切できない以上、社会的にも、適合できないことだろう。

「社会的にも、適合できない」というよりは、正確には、「社会を壊してしまう」と言うべきだろう。

なぜなら、そういった人間は、その場、その場の「雰囲気」といったものを感じ取ったり、学び取ったり、心で受け取ったりする、といったことが、できないために、その場、その場の「雰囲気」と、ともに、その場、その場の「人間関係」をも、壊してしまうし、何よりも、その場、その場の「人間」を、傷つけたとしても、その「「傷つけた」という事実」から、何かを、感じ取ったり、学び取ったり、心で受け取ったりするといったことが、できない。

それは、いわゆる、「精神病質者(サイコパス)」と呼ばれる存在なのだろう。

私たち、普通の人間にとって、「癌」だとか「ハエ」といった言葉は、忌まわしく、不吉なものを、思い起こさせるし、しかも、連想させる。

だが、いわゆる、「精神病質者(サイコパス)」と呼ばれる存在にとっては、それらの言葉は、ただ単に「辞書的な意味しか持たない「言葉」」でしかなく、その「言葉」から、「何かを、思い起こさせる」だとか、「何かを、連想させる」といったことが、一切無い、らしい。

ここに、いわゆる、「精神病質者(サイコパス)」と呼ばれる存在が、自身の内側に抱えている、「異常性」がある。

もしかしたら、この記事を読んでいるあなたは、「この記事も、だんだんと、「クリスマス」だとか、「年明けの元旦早朝」だとかの、「楽しい話」から、「不吉な話」に流れていっているな・・・」と感じているのかもしれない。

そんな、あなたのために、話を戻そう。

「「雰囲気」を感じ取ったり、学び取ったり、心で受け取ったりするといったことができる」という、「働き」が、私たち人間には、備わっており、この「働き」こそが、「「価値」を受け取る」「「価値」を感じ取る」という、私たち人間の、「働き」の、「源泉」となっているのだ。

「「世の中には、たくさんの「価値」であふれかえっている」と感じられる人生」は、とても素晴らしい人生だ。

なぜなら、

「「世の中には、たくさんの「価値」であふれかえっている」と感じられる人生」と、
「「世の中には、たくさんの「価値」であふれかえっている」と感じられない人生」

「その、どちらが、「「とても素晴らしい人生」になる確率」が高いだろうか?」

と聞かれたら、誰だって、絶対に、
「「世の中には、たくさんの「価値」であふれかえっている」と感じられる人生の方だ。」
と答えるだろうからだ。

この記事を読んでいるあなたにも、是非とも、「「世の中には、たくさんの「価値」であふれかえっている」と感じられる人生」を送ってほしい。

今回はここまで。

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