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目標と手段が入れ替わる時、覚醒する

目標」と「手段」が入れ替わる時、覚醒する。それは、その一連の流れが”苦しみ”から”楽しみ”に昇華する。つまり、手段が楽しみになったとき、目標への道のりが楽に感じるということ。

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何か達成すべきゴールなど目標が先にあって、そのゴールに到達するための方法論として手段がある。そう考えると、目標と手段が入れ替わるなんて、悪そのものだ。

なぜなら、目標がないのに手段だけ優先されている状態は意味がないからだ。例えるなら、「北海道に海鮮丼を食べに行こう」という目標があって、そのために「電車と飛行機を乗り継いで行こう」という手段がある。これが正常だ。

目標と手段

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もし、目標と手段が入れ替わったなら、電車と飛行機を乗り継いでいるけど、目標がないからどこに辿り着くかわからないという状態は不健全なはずだ。すごく遠回りして、結果的にたまたま北海道にたどり着くというのは幸運としか言えない。

もしロジカルなビジネスの世界で、こんなことが起きたら大変なことになる。がむしゃらにエクセルに数字を打ち込んでいるけど、なんのためにやっているかは認識していないので、何がアウトプットされるか大変不安だ。

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ところが、この目標と手段が入れ変わることがある。そして、入れ替わることによって無双状態になることがある。言い換えるならば、覚醒だ。上記の例でいうと、目的地に辿り着くことよりも電車や飛行機に乗ることが目的になる場合がそうだ。

それは趣味の場合に多く見られる。趣味には大して達成すべき目標はないのだ。その行為、手段そのものが楽しいのだ。プロのサッカー選手になりたいという「目標・ゴール」があったとして、それを達成するために行なっている練習という「手段」はそれなりに苦しいものだろう。

しかし、ただただその練習という手段自体が楽しみになった時、それは覚醒だ。この練習という行為が楽しみに昇華する。(もちろん、練習試合に勝つことが手前の目標ということもある。でもそれは手前の目標にすぎない。)

山の頂上に到達することが目標ではあるけれど、その道中が楽しいのだ。

仕事で必要だから英語スキルを取得するという目標が、その学習自体の手段が楽しみになった瞬間、それは覚醒だ。勉強という苦痛から、その行為自体が楽しみに昇華する。そうなったら、目的を持って勉強しているケースよりも、手段が日常化するケースは無敵だ。

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そして、その手段が優先された結果、たまたま目標に辿り着くという、目標と手段が入れ替わるケースが完成する。道のりは長いかもしれないし、たどり着かないかもしれないが、それは楽しい道のりなのだ。なんなら、ゴールに辿り着かないでほしいと願うこともあるだろう。大体のものは、到達すればするほど、ゴールは先延ばしにされ永遠に続く。

だから、一層手段が楽しみになった場合、終わらないゴールへの道のりは苦ではないのだ。