問いの途中

 初めて老いを感じたのは26歳の時だった。ちょっとした切り傷の治りが以前より遅いのに気付いた。
 ああ、これが老いるということか、と腑に落ちた。
 成長の急な階段は上りきり、しばらくの踊り場が5、6年ほど。あとはただゆっくりと下っていく、その一歩目を降りた、と思った。下りていくその道程や、下りきった先にあるものを少し思い、少し震えた。

 10代の頃などは特に、小さな傷など次の日には治ってしまっていた。もりもりと肉芽は盛り上がり、裂け目を塞ぎ、古い皮はめくれていった。それはとても簡単で、自然で当たり前のことだった。
 それが実は当たり前ではないのだと、26歳にして気付いたのだった。なんて無邪気でシアワセな子どもだったことよ。
 今は失われた肉や皮を補填するのに、時も根気も必要だ。傷跡もしっかりと残っていく。26歳で下り始めた階段を、確実に下り続けている。

 上るとか下るとか言わないほうがいいのかもしれない。
 上るにはポジティブを、下るにはネガティブを感じる。ポジティブは良くて、ネガティブは悪い。どうしたってそう感じてしまう。
 それらはきっと不要なイメージだ。良くも悪くもない。ただそういうものなのだ。

 自分の体に残った小さな、あるいは大きな傷跡を見るたびに、生きているのだと思う。始まって、続いて、終わっていくのだと思う。それは生きてきた証、などと言うと言葉が大仰すぎて、実感とは何か違う。証など別に必要としてもいない。

 いつついたのかも分からない、指先の些細な切り傷を見て、始まるって、続くって、終わるって、なんだ、と自問する。この指は自分だが、自分ってなんだ、という問いなのだと思う。
 老いの先には確実に死があるけれど、それは近くにあるだけで、まったくの別物なのだと最近は考える。
 だからなんだ、という、まだ問いの途中。

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