最近の記事

  • 固定された記事

ゾマーさんのこと パトリック・ジュースキント

#海外文学のススメ  ゾマーさんはいつも歩いている。難しい顔をして、脇目も振らず、肩を越すほど長いステッキを推進力にして、猛烈なスピードで歩いている。  ぼくが木登りをしたり、女の子に恋をしたり、いやいやピアノを習ったりしている間、上機嫌で自転車に乗ったりしている間にも、ゾマーさんは黙ってずっと歩いている。  あまりにいつも歩いているものだから、その姿を目にしても、誰もそれを話題にしたりしない。「ほら、ゾマーさんが歩いて行くよ」なんて、あえて言うようなことではないのだ。  

    • 今年の寺の猫

       今年も藤の季節が来て、年に一度の寺参りをした。母方の親類が骨となり身を寄せている寺だ。  毎年その境内で出会う猫がいる。威風堂々とした八割れの猫で、本堂縁側の足の陰に姿勢良く座り、お参りする我々を静かに眺めているのが常だ。  昨年会ったときに、また会おうと約束をしたのに、今年は姿を見せなかった。  どうしたのだろう。もうそれなりの歳だと思うし、心配になるが安否を確かめるすべもない。  姿を見たいなと思ったが、猫を待つほど詮無いこともない。待っても、猫は来ない。  潔く諦めて

      • ミルクはこぼれたままに

         アメリカに『SPILT MILK』と名付けられたジグソーパズルがあると聞いた。大量のこぼれたミルクのように、一面真っ白なジグソーパズルだという。完成図はただ白一色で、組み立てる手がかりはピースの形だけ。  茫漠とするなー……。  想像するだけで、頭の中に白い砂漠が広がる。  でもやってみたいなぁ。  はたから見たら面白くもなさそうな、単調で細かい作業が好きなのだ。  何にせよとりあえず見てみたいと思い、あちこち探したけれどどこにもない。予想通りと言えば予想通り。美しい絵柄も

        • 「身の上話」 佐藤正午

           恐怖は恋と似ているか。逆か。恋は恐怖と似ているか。  …似ているかもしれない。  物語のパーツのすべてがあるべき場所を持っており、滑らかに動いてそれぞれのその場所に隙間なく収まっていく。滑らかすぎて気持ち悪いくらい、一切の無駄もなく伏線は回収される。何か余分があったとしても、それはあるべき余分なのだ。  透徹した理屈っぽさと、如何ともしがたい身体的な激情の両方が共存していて、それが人間なのであると納得する。  というようなことが、佐藤正午の小説を読むときに始終思うことで

        • 固定された記事

        ゾマーさんのこと パトリック・ジュースキント

          問いの途中

           初めて老いを感じたのは26歳の時だった。ちょっとした切り傷の治りが以前より遅いのに気付いた。  ああ、これが老いるということか、と腑に落ちた。  成長の急な階段は上りきり、しばらくの踊り場が5、6年ほど。あとはただゆっくりと下っていく、その一歩目を降りた、と思った。下りていくその道程や、下りきった先にあるものを少し思い、少し震えた。  10代の頃などは特に、小さな傷など次の日には治ってしまっていた。もりもりと肉芽は盛り上がり、裂け目を塞ぎ、古い皮はめくれていった。それはと

          問いの途中

          「サルデーニャの蜜蜂」 内田洋子

           自分自身は生まれてこの方の土着の民で、異国の地に居場所を定めて長い時を過ごすなんてことはまったく、自分とは関係のない事柄だと思っている。  だけど内田洋子さんの本を読むときには、ここではないどこかへ行ってみたい気持ちが湧いてくる。  内田さんのイタリアは、風景も人も空気まで、まごうことなく異郷なのだが、同時になぜだか少し懐かしい。その場へ行ってみたいような気持ちにさせる未知と懐かしさが同居している。  その場へ行って、その空気に触れてみたい。生粋の出不精である自分にそんな

          「サルデーニャの蜜蜂」 内田洋子

          だれも死なない日 ジョゼ・サラマーゴ

           その国ではある日を境に、人がだれも死ななくなる。  そんな局面からこの小説は始まった。  だれ一人死なないのだが、死にそうに弱っている人が回復するわけではない。死にそうなまま死なず、いつまでも命があり続ける。  病院のベッドは病人で溢れかえり、葬儀屋は仕事をなくし、死亡保険は意味をなさなくなる。  生きることに堪えられず、人々は死にたいと願い始める。あるいは、大事な人が死にそうに苦しみ続けることに堪えられなくなってくる。隣の国では変わらず人が死に続けているので、死ぬために

          だれも死なない日 ジョゼ・サラマーゴ

          エラとルイ

           エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロング。名前のバランスもなんかいい。  スムースで爽やかな王道の声を持つエラと、ガラガラザラザラの砂のようなダミ声のルイ。合わないような気がするけれど、一緒に歌うと気持ち良くスウィングすることこの上ない。  ジャズボーカルのクイーンとキングには、「時が経っても色褪せない」なんていう、スタンダードな言葉が似合う。常套がいつまでたっても常套なのは、どれだけ纏っても擦り切れたりしないからなのだ。    Swing it!

          エラとルイ

          ポプラの木

           夏のはじめ、その木の下には雪のように綿毛が降った。綿毛は根元のぐるりに敷き詰められ、濃く白く、分厚い絨毯のようになる。端に行くほどに丸い絨毯は綻び、小さな綿毛が周囲に点を打つ。縁から緩んでフェイドアウトするドット絵のようだった。  僕は子どもで、綿毛の頃には白い絨毯の中に外に立ち、ふわふわが落ちていくのを飽かずずっと眺めていた。  その木はポプラというのだよ。そう教えてくれたのは、木が植わっている小さな空き地の隣に住んでいるおじいさんだった。  その土地とポプラはおじいさん

          ポプラの木

          時の流量

           加工用のタンクに薬品を供給しているバルブの流量計が壊れた。  デジタル表示が微動だにしていないことに気付き、慌てて中を覗くと液面は適正な位置にある。計測器が壊れただけで、供給は正常になされているようだ。  呼び出しに応えた設備課の丸眼鏡の男によると、工場内で流量計の故障が相次いでおり、部品の在庫が底をついているので、それが届くまで三日ほどの時間がかかるということだった。  その間は目視で液面を確認するしかない。30分に一度は確認することを取り決めて、その場は解散となった。

          時の流量

          脳内プレイリスト

           今日は朝からずっと、エリック・サティの「ジムノペディ第1番」が、脳内に低く流れている。自分だけに聞こえる音楽だ。  聞き馴染みのある冒頭部分から、レコードの針が飛ぶように中盤の少し高音になる部分に移り、また冒頭に戻り、繰り返し、ランダムに行ったり来たりしながら終わることがない。昨日、どこかでたまたま耳にしたからだろう。  どこで聞いたのか思い出せもしないのに、音楽や歌の一節が頭から離れずに、気付けば延々と脳内に流れ続けているということがある。ありませんか?  多くの人が体

          脳内プレイリスト

          こうしてイギリスから熊がいなくなりました ミック・ジャクソン

           イギリスの熊といえば「くまのパディントン」。故エリザベス女王のお茶会に招かれていたのが記憶に新しい。  そのニュースと動画を見たときに調べてみたのだけれど、あの紳士的な熊は実はイギリス生まれではない。  英国女王と英国的に優雅なお茶をする人気者パディントンは、ペルーからやってきた外来の熊だった。とても意外だ。  書店の平台にあったこの本が目を引いたのは、表紙の熊の線画が好みの佇まいだったからだ。タイトルは何かしらの隠喩なのだろうと思った。  パラパラとめくると多くのイラス

          こうしてイギリスから熊がいなくなりました ミック・ジャクソン

          西瓜糖の日々 リチャード・ブローティガン

           あのとりとめのない甘みを、煮詰めて煮詰めて煮詰めるとできあがる西瓜糖は、とろんと甘ったるくて、遠くに青い匂いがある。純粋だからこそ、内奥に隠した野性味や凶暴性が垣間見える、混じり気のない西瓜の味。  言葉は透明で、実態がつかめず、淡い匂いと冴え冴えとした空気に包まれたという感触だけが通り過ぎた。  ブローティガンという作家に何かしらの先入観を持っていたのだと思う。最初の数ページでその清澄さを意外に思った。だけど先入観は、すぐに物語へと埋没していった。  社会的で個人的な寓

          西瓜糖の日々 リチャード・ブローティガン

          レモンカードの作り方 レシピ

           2年近く前のことですが、「レモンカードの作り方」というタイトルで、短い文章を投稿しました。レシピを紹介しているものではありませんでした。特に選り出して読むようなものでもないと思うのですが、今でもたまに1件2件とページビューがカウントされます。  これは、レモンカードの作り方を本当に知りたい人が、迷い込んでいるのに違いない。なのに、開けてみたらば役に立たない内容の文章であると。  申し訳ない気持ちになり、自分がたまに作るレモンカードのレシピを載せておくことにしました。めっちゃ

          レモンカードの作り方 レシピ

          右から来る雨

           雨雲はいつも西からやって来る。そして東へと去っていくその道すがら、消えて無くなる。  雨が降るよと予報があれば、雨雲レーダーのページを開いてみる。画面上、左から、雨雲を表す薄い青色のドットはピコピコと(イメージです)広がって、その色を濃くしながら画面を侵食して、しばらくすると自分がいる地の頭上から、本物の雨が降ってくる。  ドットは薄い青から濃い青、緑、黄、橙色から真っ赤に変わる色で、雨の強さを表している。そのドットを地図上に被せて動かすことで、6時間後の雨雲の行方まで

          右から来る雨

          夏休みはブルーハワイ

           いつもは出勤しているありふれた平日、所用があり有休を取った。用事を済ませたあと時間があったので、少し離れたショッピングモールに買い物に行くことにする。  モールの中に入ると、あちらにもこちらにも子どもたちがいた。休憩用のベンチに男の子が2、3人で座り、額を寄せ合ってゲームをしている。小さな女の子がお母さんの腕にぶら下がって、何かおねだりをしている。兄妹らしき二人が、床のタイルの色に沿ってジャンプを繰り返している。  平日の昼間に一体なにごとと思ったが、すぐに気がついた。  

          夏休みはブルーハワイ