外山恒一氏への疑問・ツッコミ。『小山田圭吾問題の最終的解決』について。
※
本文は他記事からへの引用も含め、13,000字ほどです。
最低限に抑えるよう務めましたが、凄惨ないじめに関する描写がございます。その点ご注意ください。
また、当方noteでの執筆は初となります。
恐れ入りますが、不備・不足があればご指摘くださいませ。
●まえがき
はじめまして。ハンドルネーム:クロサキと申します。
このノートは、外山恒一氏による『小山田圭吾問題の最終的解決』に疑義を呈するために書かれたものです。
○筆者のスタンス
まず、私の立場を書いておきます。単なる一般人です。音楽業界・出版業界、いずれにも属しておりません。
本や音楽は好きですが、いわゆる「渋谷系」にはほぼ関心がなく、小沢健二氏やカヒミ・カリィ氏の曲なら2,3曲は知っていますが、小山田圭吾氏およびコーネリアスに関しては名前ぐらいしか知りません。
当然、ミュージシャンとしての小山田氏に関してはファンでもアンチでもありません。今回のいじめ問題に関しても、今年炎上するまでは全く知りませんでした。
そんなヤツがなぜ、こういった文章を書いているのか。
発端としては、それはやはり件の記事の内容がショッキングであったこと。
そして、ある意味ではそれ以上にショックであった部分があります。
ああいった記事が公に出版され、なおかつ今年になるまでの約30年間決定的な問題にならず、関係者が弁明や謝罪をしてこなかったこと。
更に言えば、周りの多くの業界人が結果的にスルーしていたこと、です。
私は『ロッキング・オン』こそ購読してきませんでしたが、いちオタクとして(大きな意味での)サブカル文化の恩恵を受けながら今日まで生きてきた人間です。
そんな自分にとって今回の炎上は、いちオタク・消費者として倫理観を問われたような気分になりました。
また、尊敬している町山智浩さんや、日頃の言動を拝見する限り「まっとうな倫理観を持っている」と認識していたライターの方々などが小山田氏および村上氏を擁護しているのもショックでした。
『クイックジャパン』等の当該記事、および小山田氏を巡る今回の問題についての私の意見を要約すると、
『作り手・出版側にどんなニュアンスがあったにしろ、公の雑誌で加害者と外野の人間がいじめ行為を面白おかしく放談した事実は変わらない。
その暴力性や無神経さを、擁護する方々(外山氏および北尾氏含む)は想像できているのか? 被害者を置き去りにしてはいないか?』
という感じです。
とはいえ、小山田氏を擁護すること。それ自体を否定するわけではありません。
『障害者を全裸にしてウンコ食わせてバックドロップした小山田圭吾』という定型文がネットには溢れていますが、現時点の資料で考えると、彼が実行したことではないらしい行為も含まれています。
自業自得の面もあるとはいえ、事実ではない風評被害を是としてはなりません。
また、いじめの加害者だからといって、彼を人間性のない『怪物』のように扱うことも危険であると思います。
○この記事の対象読者
厳密にいうと、この記事は外山氏に宛てたものではありません。彼のリアクションは特段求めていません。
これは外山氏からの反論は受け付けない。という意味ではなく、メインとしている対象者が他にいる。ということです。
そのメインの対象者=読者とは「外山氏の記事を全面的、もしくは好意的に受け入れている方々」です。
それぞれの理由を書いていきます。
まず、外山氏のリアクションを別段求めていない理由について。
端的に言えば、彼の該当記事での主張や文体を読んで「いじめ・暴力に対する問題意識や倫理観が、自分とはかけ離れている」と感じたためです。
その詳細・具体的な指摘に関しましては、後述の『●外山氏の倫理観への疑問』に記載しておりますので、そちらをご参照いただければと思います。
ただ、この段階でひとつだけ挙げておきたいのは『ユダヤ人問題の最終的解決』をもじったであろう文言をタイトルに使用している点です。
この点だけでも、個人的には氏の良識を疑ってしまいます。
私は外山氏のことをよく……というか全く存じ上げません。どうやら『ファシスト』を自称しているようなので、タイトルのもじりや挑発的な文体などは彼の『芸風』なのでしょう。
外山氏が公開した今回の記事の主張・内容が(例え全面的に同意できるものではないにしても)好印象を受けるものだったならば、そういった芸風への理解を示す気持ちも湧いたと思います。
ただ、前述の通り、そうはなりませんでした。
とはいえ、内心・倫理観は人それぞれです。
何より、この件に関して外山氏は(全くの部外者ではないにしろ)あくまで外野であって、その芸風や内心に意義を唱えても不毛であると考えています。
以上が、外山氏のリアクションを特段求めていない理由です。
ここまで読んでくれた方は、既にピンと来ているかもしれませんが「外山氏の記事を全面的かつ好意的に受け止めている方々」をメインの読者層に想定している理由を以下に書いていきます。
ザックリ言うと「自分とはかけ離れた倫理観を孕んだ記事が、多くの方の支持を受けている様にモヤモヤしたから」というのが大部分の理由です。
要約すれば「みんな、本当にこの記事が『正しい』と思っているのか?」と。
そういった疑義を提示したい。というのが本記事の執筆動機であり、作成方針です。
つまり本記事は「外山の文章・思想は間違っている!」という糾弾を趣旨としている記事ではありません。
(そういったニュアンスの記載自体はありますが)
しかしそうなると「じゃあ、そうやって異議を唱えるのも不毛な行いではないのか?」という本記事への疑問もあるでしょう。
それはその通りだと思います。
しかし、公に公開された記事(文章・主張)とその反応に異議や違和感を覚えたならば、そのことはしっかりと表明することが大事だと思っています。
(小山田氏の件の記事が結果的に見過ごされてきた遠因もココにあるのでは。と愚考しております)
加えて、外山氏の記事には事実誤認や牽強付会と思われる箇所も散見されましたので、そこにも異議や疑念を表明しておきたいというのも動機の一つです。
以上が、対象読者を絞っている理由になります。
そういった意図や動機があるため、本記事は、元記事から感じた違和感をなるべく逃さずに記載するよう努めました。そのため細かい指摘も含まれております。
ですので、箇所によっては「細かすぎる」「揚げ足取りでは?」と感じる読者の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、本記事の目的が疑義の提示であること。また、細部の検討なくしては正確な総体を把握すること能わず。という考えから、以下のような文体を選択いたしました。
では、ようやく本文へ。
としたいところですが、そこに移る前にもう一点だけ。
○外山氏の記事の意義(価値)について
私は、外山氏の記事に基本的には同意できない。という意見・スタンスではありますが、当該記事が全面的に間違い・無価値だとは思っていません。
というのも、私は『ロッキング・オン』の当該記事をネットの切り抜きでしかチェックしていなかったので、インタビューに至るまでの背景を知れたことは単純にありがたいと思いました。
小山田氏のいじめの語り口に“自嘲”的なニュアンスがあることは『クイックジャパン』だけでも読み取れるものでしたが、その部分を資料によって補強していたのは、言論として誠実だと思います。
……しかし、この箇所に関しても疑問はあるのですが。
(詳しくは後述の『②小山田氏の内心について』をご参照ください)。
『まえがき』は以上になります。
長々と失礼しました。
※本文の構成
以下から本文になります。
形式としては、外山氏の文章(箇所によっては、他記事の文章も含まれています)を引用機能を使って記し、その部分に対して私の意見や指摘を適宜書いていく。というものになっています。
前後の文脈から切り離さず引用するよう努めましたが、元記事は3万字超の長文ですので限度がありました。
ですので、できれば読者の方はブラウザの検索機能などを用いつつ、外山氏の元記事の該当箇所と並べながら、本記事を読み進めていただけると幸いです。
●外山氏の記事への疑問
◎事実関係への疑問
① 北尾修一氏の当時の立ち位置。
と外山氏は書いています。
しかし北尾氏の記事(現在は削除)によると、
と書いています。社内をウロウロしていたのは事実かも知れませんが “たまたま現場に居合わせただけ” というのは誤りでしょう。
いきなり細かい指摘と思われるかもしれませんが、私は『クイックジャパン』の当該記事に、
という箇所があるにも関わらず、北尾氏が自身を “中途半端な立場” とブログで濁していたことに対して不信感を抱いています。
ですので、この箇所を見過ごすことはできませんでした。
② 小山田氏の内心について
このように『ロッキング・オン』インタビューにおける小山田氏の内心について、外山氏は「小山田のいじめ語りは山崎氏にノせられたもの」(意訳)と主張しています。
しかし、小山田氏はこのインタビューよりも前の1991年に発行された『月刊カドカワ』でも自身のいじめ行為を“(笑)”混じりで語っているようです。
小山田氏の内心や人柄を考察するならば、この件も並列して語るべきなのではないでしょうか。
参照:
https://news.yahoo.co.jp/articles/0347b6a992afcf508ddd3612b7bc1f8cfe27a43c
③ 小山田氏が(自身で実際に)実行したいじめ行為について
『クイックジャパン』掲載の修学旅行でのいじめ語りによると、小山田氏自身が実行したのは確かにバックドロップのみであり、他の行為に関しては加減の知らない先輩の暴走を傍観していた。という立場です。
しかし排泄物を食べさせた件については記載がありません。つまり、排泄物を食べさせた行為に関しては、事実でかつ小山田氏が実行していた可能性も残っています。
全体の文脈からすれば「細かい」部分かも知れませんが、その行為は凄惨そのものですし、小山田氏の人格や人柄に関わる部分でもあります。遡って事実関係を明らかにすべきとは思いません(被害者への二次、三次加害になり得るので)が、いずれにしろ、論拠の一つとして提示するのは早計でしょう。
④ 『孤立無援のブログ』は“フェイク・ニュース”なのか
北尾氏の記事を受けて書かれている文章ですので、この“ブログ記事“というのは『孤立無援のブログ』を指していると思われます。
しかし、こちらのブログによける該当の記事が”フェイク・ニュース”と呼ばれるほど悪質なものであったのか、私には疑問です。
ジャージを脱がすいじめが小山田氏の行為であるかのように記述している点、修学旅行での下りの一文を削除している点など、該当のブログには確かに悪意を感じられます。
しかし北尾氏の指摘を受けて、当該ブログの筆者である電八郎氏は同ブログにて反論を展開しています。その記事に対して北尾氏は(現時点では)返信していません。
そして北尾氏ですら“フェイク・ニュース”という言葉を使ってはいません。
ここまで強い言葉で言い切るのなら“明白なる悪意” “巧妙に構成” の部分に関して外山氏は検証し、その結果を文章として記すべきだと思います。
また、外山氏は当該のブログに関して
と書いていますが、この“慌てて”の部分は外山氏の推測に過ぎないのではないでしょうか?
印象操作に当たると思われます。
また、加えて公開された『小山田圭吾の「名誉回復」運動のために』では、
と記載していますが、これはあまりにも突飛な主張ではないでしょうか?
大手メディアが原本に当たらず、巷のブログ記事のみをソースとして記事を書いた。などという暴挙は、世間の常識と照らし合わせるとありえない……とは言わないまでも、可能性としてはかなり低いと思います。
この箇所に関しても、外山氏は論拠を提示すべきだと思います。
◎倫理観および価値観への疑問
①小山田氏および北尾氏への「批判者」に対する、煽り・悪口への疑問
前述の通り、私は外山氏の芸風はよく存じ上げないのですが、小山田氏および北尾氏への批判者への煽りや悪口は過剰に思えます。
あくまで私の観測範囲内になりますが、そういった“反発者たち”の存在を視認したことがありません。
自身と異なる思想の持ち主を感情的かつ愚かに見せようとする、いわゆる『藁人形論法』ではないでしょうか。
続けて、同じテーマで複数引用していきます。
それは著作権に反するのでは……
確かに私自身も『孤立無援のブログ』を読んで「これはひどい」と思ったクチであり、その瞬間・その心情を、率直にツイートしてしまいました(現在は削除しています)。
しかしtwitterだけを見渡しても、前述した『月刊カドカワ』や『GiGS』の切り抜きが出回っていましたし、掲示板での過去の炎上を呟いているユーザーもいました。
炎上元は複数あったはずであり(私はともかく)当時の批判者全てを愚者とするのは乱暴な決めつけではないでしょうか。
また、批判者への『藁人形論法』が疑われる部分はもう一カ所ありますが、そちらは以下②の最後に記載しております。
②外山氏の倫理観への疑問
“笑いを誘う”と書いていますが、皆さん、笑えますか?
少なくとも自分は笑えません。
不意を突く出来事や過激な発言、不謹慎なネタに思わず笑ってしまうことは誰しもあるでしょう。
しかし山崎氏は現場で笑っていたのみならず、記事にして出版まで行っています。
時代背景によって倫理観は変わるものですが、良い大人があのレベルの『いじめ』を真剣に捉えられず、その場のノリを再現した形で出版まで許してしまったのは、明らかに異常ではないでしょうか。
そして外山氏も、客観的に読んだ上で“笑いを誘う”と書いているのです。
繰り返しになりますが本記事は、外山氏の倫理観を糾弾したり、もしくは『正』したりすることが趣旨の文章ではありません。
しかし、こういった感覚の持ち主が『いじめ』という問題に対して的確な判断を下したり、有益な提案をしたりすることができるとは、私には思えないのです。
言いたいことは先の文章と被りますので繰り返しませんが、自分には小山田氏や山崎氏だけでなく外山氏も、『いじめ』や暴力というものを軽視しているように思えてなりません。
何より、自身への加害を公の雑誌で開陳された被害者への想像力が決定的に欠けているのでは。と、改めて心配になってきます。
額面通りに受け取らない・鵜呑みにはしない。というのはメディアリテラシーとして大切なことだと思います。
しかし、「真意を読み取る」にしても限度というものがあるのではないでしょうか?
小山田氏の場合は限度を超えていたからこそ、これまでも度々問題になっていたのではと思います。
また、外山氏はこのようなことも書いています。
“届くべきところではないところにまで、情報が届いてしまう。”
あくまで私見ですが、この物言いは、ハッキリ言って『甘え』だと思います。
表現した事柄(しかも知名度の高い雑誌中の記載)に反応が返ってくるのは当然のことであり、その中にネガティブなものが含まれていることも、また当然ではないでしょうか。
もちろん、媒体や雑誌ごとに想定されているターゲット層というものは存在するでしょう。
しかし、公の雑誌で放談する。ということは、内輪の飲み会で盛り上がることとはワケが違います。
その質がどうであれ、それは『出版』であり『言論』であるはずです。そして『出版』や『言論』とは、必然的に他人を巻き込むものです。
読者に責任がある以前に、書き手にも『文責』という名の責任があるはずではないでしょうか?
“誰もがあらゆる問題について完璧な認識を身につけておかなければならない義務などない”
正論だと思います。
しかし……繰り返しの記載で恐縮ですが、山崎氏は、あのレベルのいじめ行為を聞きながら一緒になって笑い、その様を記事にして出版まで行っているのです。私にとっては明らかに異常な感覚ですし、こんな風に言い切ってしまえる外山氏の感覚・倫理観も、私にとっては同様です。
そんな私からすると、この『正論』は、『いじめ』とその行為の内容を矮小化しているように感じます。
“ゲストとして登場したにすぎません”というのは小山田氏の擁護としては過剰ではないでしょうか。
当該の記事は『ロッキング・オン』を経てのインタビューであるはずです。
また、前述の通り、小山田氏は遡ること数年前の1991年の『月刊カドカワ』にて、既に自身のいじめを面白おかしく語っています。
『クイックジャパン』における該当記事の醜悪さに関しては、確かに村上氏の責任に依るところが大きいでしょう。
だからといって、小山田氏が受け身の存在であったかのように記載するのはミスリードであると思います。
みなさん、笑えますか?
これも似た記述の繰り返しになってしまいますが『倒錯的な語り口や不謹慎な事柄に不意を突かれ思わず笑ってしまう.......』そういったことは誰にでもあるでしょう。
しかし、記事にして出版したとなればそのニュアンスは違ってきます。
その笑いが、本来は『良くないもの』だと認識していたのであれば、その旨を書き足したり注釈を入れたりするのではないでしょうか。
どのみち、出版された以上、こういった不謹慎な箇所が非難されるのは当然のことかと思います。
というより“つい吹き出してしまう”の部分は、そもそも外山氏の恣意的な解釈であると思われます。
再度の引用になりますが『クイックジャパン』での該当箇所の原文はこうです。
「外山氏は北尾氏の『身内』であり、だから庇っているのでは?」という声を外山氏は“ゲスの勘繰り”と称しています。
果たして“ゲスの勘繰り”なのか。私には疑問です。
私は、脛に傷を持っていたとしても、おかしいことにはおかしいと声を上げるべきだと思います。
加えて、これも私見ではありますが、偽善と蔑まれようとも、目の前の被害者、現実の未来をより良くしようとする行為こそが美徳だと信じています。
繰り返しになりますが、本記事は、外山氏の倫理観や価値観等を糾弾する趣旨の文章ではありません。
なのでこの意見にどうこう言う気はないのですが、私はこの箇所で「外山氏は『いじめ』というものを社会的な問題として捉えていないのだな」という思いが決定的なものとなりました。
ですので、
という主張も、空疎に響くばかりでした。
外野によるネットでの人民裁判や私刑を憂う気持ちは大事であると思いますが。
また、
“「イジメ、ダメ、絶対」の連呼という何の意味もないキャンペーンの枠組から出ようと志したこともないような連中”
に該当する方達を、少なくとも自分は今回の炎上をめぐる問題のなかでは観測したことがありません。これもまた『藁人形論法』を疑ってしまいます。
●おわりに
他にも、違和感を覚えた箇所は沢山あるのですが、疑義・ツッコミの内容としては重なるものになりますので、ここまでにしたいと思います。
僭越ながら、本記事を読んだ後にもう一度、外山氏の元記事を読み直し、読者様それぞれが一連の騒動や問題を吟味していただければ、筆者としては幸いです。
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