外山恒一氏への疑問・ツッコミ。『小山田圭吾問題の最終的解決』について。


本文は他記事からへの引用も含め、13,000字ほどです。
最低限に抑えるよう務めましたが、凄惨ないじめに関する描写がございます。その点ご注意ください。
また、当方noteでの執筆は初となります。
恐れ入りますが、不備・不足があればご指摘くださいませ。

●まえがき


はじめまして。ハンドルネーム:クロサキと申します。
このノートは、外山恒一氏による『小山田圭吾問題の最終的解決』に疑義を呈するために書かれたものです。

筆者のスタンス
まず、私の立場を書いておきます。単なる一般人です。音楽業界・出版業界、いずれにも属しておりません。
本や音楽は好きですが、いわゆる「渋谷系」にはほぼ関心がなく、小沢健二氏やカヒミ・カリィ氏の曲なら2,3曲は知っていますが、小山田圭吾氏およびコーネリアスに関しては名前ぐらいしか知りません。
当然、ミュージシャンとしての小山田氏に関してはファンでもアンチでもありません。今回のいじめ問題に関しても、今年炎上するまでは全く知りませんでした。

そんなヤツがなぜ、こういった文章を書いているのか。

発端としては、それはやはり件の記事の内容がショッキングであったこと。
そして、ある意味ではそれ以上にショックであった部分があります。
ああいった記事が公に出版され、なおかつ今年になるまでの約30年間決定的な問題にならず、関係者が弁明や謝罪をしてこなかったこと。
更に言えば、周りの多くの業界人が結果的にスルーしていたこと、です。

私は『ロッキング・オン』こそ購読してきませんでしたが、いちオタクとして(大きな意味での)サブカル文化の恩恵を受けながら今日まで生きてきた人間です。
そんな自分にとって今回の炎上は、いちオタク・消費者として倫理観を問われたような気分になりました。

また、尊敬している町山智浩さんや、日頃の言動を拝見する限り「まっとうな倫理観を持っている」と認識していたライターの方々などが小山田氏および村上氏を擁護しているのもショックでした。

『クイックジャパン』等の当該記事、および小山田氏を巡る今回の問題についての私の意見を要約すると、
『作り手・出版側にどんなニュアンスがあったにしろ、公の雑誌で加害者と外野の人間がいじめ行為を面白おかしく放談した事実は変わらない。
その暴力性や無神経さを、擁護する方々
(外山氏および北尾氏含む)は想像できているのか? 被害者を置き去りにしてはいないか?』
という感じです。
とはいえ、小山田氏を擁護すること。それ自体を否定するわけではありません。
『障害者を全裸にしてウンコ食わせてバックドロップした小山田圭吾』という定型文がネットには溢れていますが、現時点の資料で考えると、彼が実行したことではないらしい行為も含まれています。
自業自得の面もあるとはいえ、事実ではない風評被害を是としてはなりません。
また、いじめの加害者だからといって、彼を人間性のない『怪物』のように扱うことも危険であると思います。


○この記事の対象読者
厳密にいうと、この記事は外山氏に宛てたものではありません。彼のリアクションは特段求めていません。
これは外山氏からの反論は受け付けない。という意味ではなく、メインとしている対象者が他にいる。ということです。

そのメインの対象者=読者とは「外山氏の記事を全面的、もしくは好意的に受け入れている方々」です。

それぞれの理由を書いていきます。

まず、外山氏のリアクションを別段求めていない理由について。
端的に言えば、彼の該当記事での主張や文体を読んで「いじめ・暴力に対する問題意識や倫理観が、自分とはかけ離れている」と感じたためです。
その詳細・具体的な指摘に関しましては、後述の『●外山氏の倫理観への疑問』に記載しておりますので、そちらをご参照いただければと思います。
ただ、この段階でひとつだけ挙げておきたいのは『ユダヤ人問題の最終的解決』をもじったであろう文言をタイトルに使用している点です。
この点だけでも、個人的には氏の良識を疑ってしまいます。

私は外山氏のことをよく……というか全く存じ上げません。どうやら『ファシスト』を自称しているようなので、タイトルのもじりや挑発的な文体などは彼の『芸風』なのでしょう。
外山氏が公開した今回の記事の主張・内容が(例え全面的に同意できるものではないにしても)好印象を受けるものだったならば、そういった芸風への理解を示す気持ちも湧いたと思います。
ただ、前述の通り、そうはなりませんでした。

とはいえ、内心・倫理観は人それぞれです。
何より、この件に関して外山氏は(全くの部外者ではないにしろ)あくまで外野であって、その芸風や内心に意義を唱えても不毛であると考えています。

以上が、外山氏のリアクションを特段求めていない理由です。

ここまで読んでくれた方は、既にピンと来ているかもしれませんが「外山氏の記事を全面的かつ好意的に受け止めている方々」をメインの読者層に想定している理由を以下に書いていきます。

ザックリ言うと「自分とはかけ離れた倫理観を孕んだ記事が、多くの方の支持を受けている様にモヤモヤしたから」というのが大部分の理由です。
要約すれば「みんな、本当にこの記事が『正しい』と思っているのか?」と。
そういった疑義を提示したい。というのが本記事の執筆動機であり、作成方針です。
つまり本記事は「外山の文章・思想は間違っている!」という糾弾を趣旨としている記事ではありません。
(そういったニュアンスの記載自体はありますが)

しかしそうなると「じゃあ、そうやって異議を唱えるのも不毛な行いではないのか?」という本記事への疑問もあるでしょう。
それはその通りだと思います。
しかし、公に公開された記事(文章・主張)とその反応に異議や違和感を覚えたならば、そのことはしっかりと表明することが大事だと思っています。
(小山田氏の件の記事が結果的に見過ごされてきた遠因もココにあるのでは。と愚考しております)
加えて、外山氏の記事には事実誤認や牽強付会と思われる箇所も散見されましたので、そこにも異議や疑念を表明しておきたいというのも動機の一つです。

以上が、対象読者を絞っている理由になります。

そういった意図や動機があるため、本記事は、元記事から感じた違和感をなるべく逃さずに記載するよう努めました。そのため細かい指摘も含まれております。
ですので、箇所によっては「細かすぎる」「揚げ足取りでは?」と感じる読者の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、本記事の目的が疑義の提示であること。また、細部の検討なくしては正確な総体を把握すること能わず。という考えから、以下のような文体を選択いたしました。

では、ようやく本文へ。
としたいところですが、そこに移る前にもう一点だけ。

○外山氏の記事の意義(価値)について
私は、外山氏の記事に基本的には同意できない。という意見・スタンスではありますが、当該記事が全面的に間違い・無価値だとは思っていません。
というのも、私は『ロッキング・オン』の当該記事をネットの切り抜きでしかチェックしていなかったので、インタビューに至るまでの背景を知れたことは単純にありがたいと思いました。
小山田氏のいじめの語り口に“自嘲”的なニュアンスがあることは『クイックジャパン』だけでも読み取れるものでしたが、その部分を資料によって補強していたのは、言論として誠実だと思います。
……しかし、この箇所に関しても疑問はあるのですが。
(詳しくは後述の『②小山田氏の内心について』をご参照ください)。

『まえがき』は以上になります。
長々と失礼しました。

※本文の構成
以下から本文になります。
形式としては、外山氏の文章(箇所によっては、他記事の文章も含まれています)を引用機能を使って記し、その部分に対して私の意見や指摘を適宜書いていく。というものになっています。
前後の文脈から切り離さず引用するよう努めましたが、元記事は3万字超の長文ですので限度がありました。
ですので、できれば読者の方はブラウザの検索機能などを用いつつ、外山氏の元記事の該当箇所と並べながら、本記事を読み進めていただけると幸いです。

●外山氏の記事への疑問

◎事実関係への疑問


① 北尾修一氏の当時の立ち位置。

“北尾氏は当時まだ同誌の新米編集者で、問題の記事を担当していたわけでもなく、社内をウロウロしていてたまたま現場に居合わせただけであるようです。”

と外山氏は書いています。
しかし北尾氏の記事(現在は削除)によると、

“当時の私はぺーぺーのダメ編集者で、時間を持て余していました。そんな私にとって、自分が引き合わせたA氏とM氏が組んで、しかも当時すでにスターだった小山田圭吾さんを取材をするというんで、「これは勉強になるに違いない」と思って、やじ馬(見学者)として取材現場に同席させてもらっていたわけです。”

と書いています。社内をウロウロしていたのは事実かも知れませんが “たまたま現場に居合わせただけ” というのは誤りでしょう。
いきなり細かい指摘と思われるかもしれませんが、私は『クイックジャパン』の当該記事に、

“以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、
僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。”

という箇所があるにも関わらず、北尾氏が自身を “中途半端な立場” とブログで濁していたことに対して不信感を抱いています。
ですので、この箇所を見過ごすことはできませんでした。

② 小山田氏の内心について

“しかし山崎氏のほうが興味津々になってきて、いったん音楽のほうに話を振って小山田氏が饒舌に、別の見方をすれば無防備・無警戒に楽しく語り散らす雰囲気になってきたところで、山崎氏は「音楽以外の部分で思春期の小山田圭吾はどういう感じの人間だったの?」と切り込みます。そこから、くだんのイジメの話まで、小山田氏はつい無警戒なままあれこれと思い出すままに饒舌に語り続けてしまうのです。”

このように『ロッキング・オン』インタビューにおける小山田氏の内心について、外山氏は「小山田のいじめ語りは山崎氏にノせられたもの」(意訳)と主張しています。
しかし、小山田氏はこのインタビューよりも前の1991年に発行された『月刊カドカワ』でも自身のいじめ行為を“(笑)”混じりで語っているようです。
小山田氏の内心や人柄を考察するならば、この件も並列して語るべきなのではないでしょうか。
参照:
https://news.yahoo.co.jp/articles/0347b6a992afcf508ddd3612b7bc1f8cfe27a43c


③ 小山田氏が(自身で実際に)実行したいじめ行為について

“小山田氏のチェックを経て活字化されたはずの『クイック・ジャパン』でのインタビューと突き合わせると、「全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」というのは、小山田氏がやったことではなく、たしかに小山田氏も現場にいたんだが、内心では「これは一線を超えている」と思ってうろたえており、しかし止める勇気はなく、周りに合わせて表面上はニヤニヤ笑って傍観していた、ということであるようです。”

『クイックジャパン』掲載の修学旅行でのいじめ語りによると、小山田氏自身が実行したのは確かにバックドロップのみであり、他の行為に関しては加減の知らない先輩の暴走を傍観していた。という立場です。
しかし排泄物を食べさせた件については記載がありません。つまり、排泄物を食べさせた行為に関しては、事実でかつ小山田氏が実行していた可能性も残っています。
全体の文脈からすれば「細かい」部分かも知れませんが、その行為は凄惨そのものですし、小山田氏の人格や人柄に関わる部分でもあります。遡って事実関係を明らかにすべきとは思いません(被害者への二次、三次加害になり得るので)が、いずれにしろ、論拠の一つとして提示するのは早計でしょう。

④ 『孤立無援のブログ』は“フェイク・ニュース”なのか


“北尾修一氏による勇気ある告発によって、〝コーネリアス〟こと小山田圭吾氏への今回の壮絶なバッシングの火元となったブログ記事が、文章能力の不足といった不可抗力の類ではなく、明白なる悪意に基づいて巧妙に構成されたデマ、要するにいわゆる〝フェイク・ニュース〟の類であることはすでに明らかとなりました。”

北尾氏の記事を受けて書かれている文章ですので、この“ブログ記事“というのは『孤立無援のブログ』を指していると思われます。
しかし、こちらのブログによける該当の記事が”フェイク・ニュース”と呼ばれるほど悪質なものであったのか、私には疑問です。
ジャージを脱がすいじめが小山田氏の行為であるかのように記述している点、修学旅行での下りの一文を削除している点など、該当のブログには確かに悪意を感じられます。
しかし北尾氏の指摘を受けて、当該ブログの筆者である電八郎氏は同ブログにて反論を展開しています。その記事に対して北尾氏は(現時点では)返信していません。
そして北尾氏ですら“フェイク・ニュース”という言葉を使ってはいません。
ここまで強い言葉で言い切るのなら“明白なる悪意” “巧妙に構成” の部分に関して外山氏は検証し、その結果を文章として記すべきだと思います。
また、外山氏は当該のブログに関して

“(前略)この記述は、指摘を受けるや慌てて削除された様子であり、デマ記事の作者の悪辣な意図と卑劣な人間性は、この1件のみをもってしても、もはや否定のしようがありません。”

と書いていますが、この“慌てて”の部分は外山氏の推測に過ぎないのではないでしょうか?
印象操作に当たると思われます。

また、加えて公開された『小山田圭吾の「名誉回復」運動のために』では、

“日本のほぼすべてのマスメディアも、オリジナルの雑誌記事を確認することなく、誰が書いたのかも明らかでないネット上のブログ記事にのみ依拠した報道をおこなっていた疑いも今や濃厚である。”

と記載していますが、これはあまりにも突飛な主張ではないでしょうか?
大手メディアが原本に当たらず、巷のブログ記事のみをソースとして記事を書いた。などという暴挙は、世間の常識と照らし合わせるとありえない……とは言わないまでも、可能性としてはかなり低いと思います。
この箇所に関しても、外山氏は論拠を提示すべきだと思います。

◎倫理観および価値観への疑問


①小山田氏および北尾氏への「批判者」に対する、煽り・悪口への疑問
前述の通り、私は外山氏の芸風はよく存じ上げないのですが、小山田氏および北尾氏への批判者への煽りや悪口は過剰に思えます。

“(前略)反発者たちは、第3部がデタラメなんだから第1部はもちろん第2部の内容さえデタラメなのだと行き過ぎてしまう。北尾氏の書いてることは全部デタラメで、したがって北尾氏がデタラメだと指摘したデマ記事は、やっぱりデマではなく真実なのだと考えて、「小山田、許すまじ」の思いを却って強くしてしまうのです。それは行き過ぎというものです。”

あくまで私の観測範囲内になりますが、そういった“反発者たち”の存在を視認したことがありません。
自身と異なる思想の持ち主を感情的かつ愚かに見せようとする、いわゆる『藁人形論法』ではないでしょうか。

続けて、同じテーマで複数引用していきます。

“(前略)私がこの事件に首を突っ込み始めると、まるで私が北尾氏という〝身内〟をかばっているかのようにゲスの勘繰りを始める輩もまた次々と湧いてくる始末です。”

「自分の目で検証したいから誰かインタビューの全編をネットにアップしてくれ」と呼びかければ、そうしてくれる人が決して現れなかったとは、まさか云いきれるものではありますまい。

それは著作権に反するのでは……

“しかし、事前の原稿チェックを経ていないために、実際にあったこととはかなりニュアンスの異なる描写になってしまっていて、そのことが「小山田、許すまじ」の感情に大いに影響を与えたに決まっているのです。
そんなことはない、などと云える人の自己省察のなさは、もうお話になりませんね。いきなり、「全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを喰わしたりさ。ウンコ喰わした上にバックドロップしたりさ」というのがまるで小山田氏が直接関わるなり「アイディアを提供」するなりしたイジメの内容である、という印象を与えられなければ、もちろんイジメに加担したことそれ自体に怒りを感じるとしても、その感情は今回抱いてしまったほど激しいものではなかったはずです。”

確かに私自身も『孤立無援のブログ』を読んで「これはひどい」と思ったクチであり、その瞬間・その心情を、率直にツイートしてしまいました(現在は削除しています)。
しかしtwitterだけを見渡しても、前述した『月刊カドカワ』や『GiGS』の切り抜きが出回っていましたし、掲示板での過去の炎上を呟いているユーザーもいました。
炎上元は複数あったはずであり(私はともかく)当時の批判者全てを愚者とするのは乱暴な決めつけではないでしょうか。

また、批判者への『藁人形論法』が疑われる部分はもう一カ所ありますが、そちらは以下②の最後に記載しております。

②外山氏の倫理観への疑問

“小山田氏自身がまさに、自分はまったく卑劣な人間です、という自己批判……とまでは云いませんが、まあ自嘲的なニュアンスで語っているんですから、卑劣だ!とカサにかかって責められても、小山田氏としては困惑する以外にないでしょう。
 では山崎氏の側の「(笑)」は何なのか? これもどう考えても、ろくでもないイジメの話を聞いて「楽しそうだなあ」と笑っているわけではありません。1つには、まず小山田氏の自嘲的な語りっぷりを笑っているわけです。たしかに、最初のうちは口が重く、少年時代の実生活面でのエピソードをなかなか語りたがらなかった小山田氏が、饒舌になるにつれて〝情けない〟エピソードを次々と開陳し始め、どんどん自虐的な語りっぷりと化していく様子は、笑いを誘います。そしてもう1つにはおそらく、これまた小山田氏に対して、「とうとう正体を現しやがったな!」という〝ツッコミ〟的な「(笑)」なのです。”

“笑いを誘う”と書いていますが、皆さん、笑えますか? 
少なくとも自分は笑えません。
不意を突く出来事や過激な発言、不謹慎なネタに思わず笑ってしまうことは誰しもあるでしょう。
しかし山崎氏は現場で笑っていたのみならず、記事にして出版まで行っています。
時代背景によって倫理観は変わるものですが、良い大人があのレベルの『いじめ』を真剣に捉えられず、その場のノリを再現した形で出版まで許してしまったのは、明らかに異常ではないでしょうか。
そして外山氏も、客観的に読んだ上で“笑いを誘う”と書いているのです。
繰り返しになりますが本記事は、外山氏の倫理観を糾弾したり、もしくは『正』したりすることが趣旨の文章ではありません。
しかし、こういった感覚の持ち主が『いじめ』という問題に対して的確な判断を下したり、有益な提案をしたりすることができるとは、私には思えないのです。

“(前略)いくらメジャーとはいえ〝しょせんサブカル〟つまり大衆文化の芸能人家庭出身の小山田氏と違って、小沢氏のほうは、クラシック音楽といいドイツ文学といい、堂々たるメイン・カルチャー、ハイ・カルチャーの超文化エリートの家系です。つまり実際には小山田氏と小沢氏との間には乗り越えがたい階級の壁があったわけですが、一緒にバンドをやってるわけだし小・中・高と御学友の間柄なんだし、ハタから見れば小山田氏も同じような貴族階級の、温室育ちのお坊ちゃんなんだろうと思われていて不思議ではありません。
 インタビュー当時の小山田氏のそのようなイメージを踏まえて考えれば、どうせ〝我々庶民〟の苛酷な現実とは無関係なヤンゴトなき環境で何の苦労も知らずぬくぬくと育ってきたに違いない、と思っていた小山田氏が、〝万引き〟であれ〝ケンカ〟であれ〝イジメ〟であれ、意外にも〝我々庶民〟のそれと大差ないグダグダな暗黒エピソードに彩られた少年時代をお過ごしであられた事実を突きつけられて、「わはははは」と「大笑」してしまうのはごく自然な反応とさえ云えます。”

言いたいことは先の文章と被りますので繰り返しませんが、自分には小山田氏や山崎氏だけでなく外山氏も、『いじめ』や暴力というものを軽視しているように思えてなりません。
何より、自身への加害を公の雑誌で開陳された被害者への想像力が決定的に欠けているのでは。と、改めて心配になってきます。

※『ロッキング・オン』でのインタビューや巻末対談に関して
“(前略)もちろん、どうにも軽々しい文面に対する違和感は、まず一読してみて私でさえ、いくらか持たざるを得ませんでした。
 この点についてはまず、ツイッターで誰かが、「雑誌のインタビュー記事なんて、云ってないことを書き加えられてしまうことさえあるし、まして語尾などの処理のしかた1つや、(笑)を付けるかどうかとかでニュアンスが変えられてしまうことなんかむしろ日常茶飯のはずで、どうしてみんな活字化された文面をそのまま受け入れて『こんなこと云ってやがる』などとウブな反応をするのか、気が知れん」と大意そのようなことを書いているのを目にして、私も大いに頷くところがありました。”

額面通りに受け取らない・鵜呑みにはしない。というのはメディアリテラシーとして大切なことだと思います。
しかし、「真意を読み取る」にしても限度というものがあるのではないでしょうか?
小山田氏の場合は限度を超えていたからこそ、これまでも度々問題になっていたのではと思います。

また、外山氏はこのようなことも書いています。

“『ロッキンオン・ジャパン』の読者たちは、単に音楽を聴くだけでなく、それについてミュージシャンたちが「2万字」ぶんも語り倒したり、有名無名の批評家たちが音楽について論じたりするのを、わざわざカネを払って熱心に読むような、要は文系インテリ的なロック・ファンたちです。そこらへんの人民大衆よりは、はるかにリテラシーが高いんです。『ロッキンオン・ジャパン』の記事は主にそういう階層に向けて書かれていて、ちょっと説明不足だったりピントがぼやけたりしていたとしても、そこを読む側の主体的努力で補うのです。そういう状況で成立した記事が、30年近く経って〝発掘〟されて、しかも強烈な印象を与える部分のみが切り取られてネットに上げられたりして、もともと記事の読み手として想定されていたわけでもない、リテラシーはもちろん当時の雑誌編集体制や小山田圭吾氏のパブリック・イメージやらについて必要な何の予備知識もない連中が、カネも払わずに斜め読みして目に飛び込んできた強烈な文言のみに脊髄反射し、非常識だ鬼畜だ人非人だと勝手なことを云い合うわけです。東浩紀氏の云う「誤配」、しかも悪い意味での「誤配」ですね。届くべきところではないところにまで、情報が届いてしまう。云っちゃいけないことをコソコソと云い合うような場であった深夜放送での不謹慎な発言がネットで槍玉に挙げられて、不謹慎だ、そんなこと云うなんて非常識だと糾弾されてしまうということも、近年たびたび起きています。”

“届くべきところではないところにまで、情報が届いてしまう。”
あくまで私見ですが、この物言いは、ハッキリ言って『甘え』だと思います。
表現した事柄(しかも知名度の高い雑誌中の記載)に反応が返ってくるのは当然のことであり、その中にネガティブなものが含まれていることも、また当然ではないでしょうか。
もちろん、媒体や雑誌ごとに想定されているターゲット層というものは存在するでしょう。
しかし、公の雑誌で放談する。ということは、内輪の飲み会で盛り上がることとはワケが違います。
その質がどうであれ、それは『出版』であり『言論』であるはずです。そして『出版』や『言論』とは、必然的に他人を巻き込むものです。
読者に責任がある以前に、書き手にも『文責』という名の責任があるはずではないでしょうか?

山崎氏はイジメ問題というものにピンときていなかったのかもしれないし、今でもピンときていないのかもしれません。仮にそうだとして、それは落ち度ではありません。
誰もがあらゆる問題について完璧な認識を身につけておかなければならない義務などないんです。

 “誰もがあらゆる問題について完璧な認識を身につけておかなければならない義務などない”
正論だと思います。
しかし……繰り返しの記載で恐縮ですが、山崎氏は、あのレベルのいじめ行為を聞きながら一緒になって笑い、その様を記事にして出版まで行っているのです。私にとっては明らかに異常な感覚ですし、こんな風に言い切ってしまえる外山氏の感覚・倫理観も、私にとっては同様です。
そんな私からすると、この『正論』は、『いじめ』とその行為の内容を矮小化しているように感じます。

“基本的なことから確認しなければいけませんね。問題の記事は、まず第一に誰の〝作品〟かと云えば、小山田氏ではなく村上氏の作品なのです。村上氏は当時24歳、周囲の無名の人々へのインタビュー記事を主体とするミニコミを発行してたようです。『クイック・ジャパン』第3号から連載が始まる「いじめ紀行」は、村上氏なりの問題意識に基づく、イジメをめぐってその加害者側からも被害者側からも詳細に体験を語ってもらおうという主旨の、村上氏自身が同誌に持ち込んだ企画らしい。正確には、連載タイトルは「村上清の〝いじめ紀行〟」です。つまり小山田氏は、その村上氏の連載の、第1回目のゲストとして登場したにすぎません。”

“ゲストとして登場したにすぎません”というのは小山田氏の擁護としては過剰ではないでしょうか。
当該の記事は『ロッキング・オン』を経てのインタビューであるはずです。
また、前述の通り、小山田氏は遡ること数年前の1991年の『月刊カドカワ』にて、既に自身のいじめを面白おかしく語っています。
『クイックジャパン』における該当記事の醜悪さに関しては、確かに村上氏の責任に依るところが大きいでしょう。
だからといって、小山田氏が受け身の存在であったかのように記載するのはミスリードであると思います。

“とはいえ、小山田氏の語りもまた奇っ怪なものです。この奇っ怪な印象はどこから来るのだろうと考えてみるに、結局のところ小山田氏は、自分が「沢田君」や「村田君」をイジメていたという事実を、頑なまでに認めようとしないんですよ。正確に云うと、「今から思えば」れっきとしたイジメだったことはすんなり認めるんです。もちろん、そうでなければ「いじめ紀行」なんて企画に加害者側として登場することを承諾したりするはずがありませんよね。ところが、当時リアルタイムでは、イジメているつもりはなく、「一緒に」ふざけて遊んでいるつもりだった、という線は絶対に譲ろうとしない。イジメる側はみんなそう云うんだよ、という意見はありましょう。私もそう思います。しかし、小山田氏はとにかく奇妙なまでに頑なで、だから読んでいてつい笑ってしまったりするんです。ハードにイジメまくっている話をさんざんしておきながら、〝イジメているつもりはない〟などと強情を張る。かと思えば、すぐに続けて〝今にして思えば〟「イジメなんだけどさ(笑)」です。これは笑って読んだとしてもべつに人非人ではないんじゃありませんか? インタビュアーの村上氏や、同席していた編集者の赤田祐一氏や北尾修一氏もつい吹き出してしまう、というのは仕方ないでしょう。「これはイジメじゃないんだけど……」と小山田氏が饒舌に語るエピソードが、聞けば聞くほどいちいちことごとくイジメ以外の何物でもなく、「いやいやいやいや、イジメだよ!(笑)」という「(笑)」です。”

みなさん、笑えますか?
これも似た記述の繰り返しになってしまいますが『倒錯的な語り口や不謹慎な事柄に不意を突かれ思わず笑ってしまう.......』そういったことは誰にでもあるでしょう。
しかし、記事にして出版したとなればそのニュアンスは違ってきます。
その笑いが、本来は『良くないもの』だと認識していたのであれば、その旨を書き足したり注釈を入れたりするのではないでしょうか。
どのみち、出版された以上、こういった不謹慎な箇所が非難されるのは当然のことかと思います。

というより“つい吹き出してしまう”の部分は、そもそも外山氏の恣意的な解釈であると思われます。
再度の引用になりますが『クイックジャパン』での該当箇所の原文はこうです。

“以上が2人のいじめられっ子の話だ。この話をしてる部屋にいる人は、
僕もカメラマンの森さんも赤田さんも北尾さんもみんな笑っている。”

「外山氏は北尾氏の『身内』であり、だから庇っているのでは?」という声を外山氏は“ゲスの勘繰り”と称しています。
果たして“ゲスの勘繰り”なのか。私には疑問です。

“自分が小中学生だった頃を思い出してみれば、そうそう小山田氏のイジメを一方的に非難する資格はないことに思い当たるはずで、思い当たらない人は、まともな大人になれていないことをまず自覚すべきです。”

私は、脛に傷を持っていたとしても、おかしいことにはおかしいと声を上げるべきだと思います。
加えて、これも私見ではありますが、偽善と蔑まれようとも、目の前の被害者、現実の未来をより良くしようとする行為こそが美徳だと信じています。

“小中学生の頃の小山田氏のイジメについて、いい大人が今さらどうこう云うべきではありません。しつこく追及してよいとすれば、小山田氏にイジメられていた当人だけです。イジメられた経験があって、イジメの恨みは絶対に忘れないというのであれば、小山田氏ではなく、自分をイジメた連中を、草の根分けても探し出して報復すべきです。”

繰り返しになりますが、本記事は、外山氏の倫理観や価値観等を糾弾する趣旨の文章ではありません。
なのでこの意見にどうこう言う気はないのですが、私はこの箇所で「外山氏は『いじめ』というものを社会的な問題として捉えていないのだな」という思いが決定的なものとなりました。

ですので、

“もちろん村上氏にも情状酌量の余地は充分にある。
 村上氏もやはり、「イジメ、ダメ、絶対」などという空疎なスローガンの連呼では何も解決しないと考えて、そうではないイジメ問題への迫り方を模索しようとしたのでしょう。村上氏は盛大に失敗しましたが、その失敗を、「イジメ、ダメ、絶対」の連呼という何の意味もないキャンペーンの枠組から出ようと志したこともないような連中が非難する資格はありません。そういう連中より、村上氏のほうが何億倍も立派です。”

という主張も、空疎に響くばかりでした。

外野によるネットでの人民裁判や私刑を憂う気持ちは大事であると思いますが。

また、
“「イジメ、ダメ、絶対」の連呼という何の意味もないキャンペーンの枠組から出ようと志したこともないような連中”
に該当する方達を、少なくとも自分は今回の炎上をめぐる問題のなかでは観測したことがありません。これもまた『藁人形論法』を疑ってしまいます。


●おわりに

他にも、違和感を覚えた箇所は沢山あるのですが、疑義・ツッコミの内容としては重なるものになりますので、ここまでにしたいと思います。

僭越ながら、本記事を読んだ後にもう一度、外山氏の元記事を読み直し、読者様それぞれが一連の騒動や問題を吟味していただければ、筆者としては幸いです。

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