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さようなら

「痛くないの」
収穫にはまだ早い大麦畑が夜の底でザワザワと揺れているのを眺めながら、私は彼女に尋ねた。
6月も中旬に差し掛かった北海道の夜はまだどこか肌寒い。隣にしゃがみ込んだ彼女は七分丈で薄手のカーディガンを羽織っている。その手首にのぞく華奢なシルバーの腕時計は、私が先月彼女の誕生日にあげたものだった。
「なにが?」
「手首噛むの、癖なの?」
「ああ」
彼女は少し腕時計をずらして手首に残る歯の跡らしきものに目をやった。
それをつけたであろう男のことを私はよく知っている。彼女の口から語られる、間接的な存在として。
来月彼女はその男と結婚するらしい。
彼女を助手席に乗せた車を運転しながらその報告を聴いた数十分前の私は、滑稽な程に何も言えなかった。
おめでとうだとか、その場にふさわしい言葉は何一つ言えなかったけれど、対向車に突っ込んでいかなかったことだけは褒めてほしい。
「三日月、綺麗だね」
もうきっと彼女と二人で出掛けることはないだろう。


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冴え冴えとした三日月の光る6月の夜、麦の畑のはてできみの手首に歯型が残っていることに気づいた時の話をしてください。
#さみしいなにかをかく
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