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与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係

当たり前のことですが、持っていないものを与えることはできません。持ってはいるものの、持っていないと信じているものもまた与えることはできないのです。

人は自分が持っているものだけを与えることができます。見方を変えれば、もし私たちが真に何かを与えるならば、私たちはそれを持っていることを自分に証しすることになるのです。

与えるものが与えられる。この原則が正当であるのは、自分に与えられるものは自分が持っていなかった何かではなく、すでに持っていたものだからなのです。

優しさを差し出せば優しさを受け取り、平安を差し出せば平安を受け取ります。愛を差し出せば自分がすでに持っていた愛に気がつくのです。

反対に、憎しみを差し出せば、本来私たちが持っていない憎しみを自分のものだと感じてしまうことになります。

私たちは誰でも制限のない宝を持っています。それは神が創造されたままの自己の属性であり、無条件の愛なのです。

今、それは隠されているかもしれませんが、あなたに見出されることを待っています。

与えることにより、それが自分の中にあったことが少しずつ感じられるようになってきます。

兄弟に与えたい、すなわち兄弟を愛したい、その意欲を聖霊に差し出せば、聖霊はそのための道を開いてくれるでしょう。

おそらく、その宝を見えなくしている罪悪感の一つひとつを赦し手放していくプロセスを経ることになるかもしれません。

そのプロセスも、与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係を通して行われます。

私たちは今ここに自分の中にある宝を見つけようとしているだけです。それは一度も失われたことがなく、変化したこともない私たち自身なのです。

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