ルイジ

私の心の風景をここに綴ってみたいと思います。私の心にある平安が、あなたの心にある平安に…

ルイジ

私の心の風景をここに綴ってみたいと思います。私の心にある平安が、あなたの心にある平安に触れ、それを呼び覚ます助けとなるかもしれません。あなたの心の中には安らぎと幸せに満ちた場所があります。 ご意見ご質問などあれば、お気軽にご連絡下さい。aroijio3752@icloud.com

最近の記事

与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係

当たり前のことですが、持っていないものを与えることはできません。持ってはいるものの、持っていないと信じているものもまた与えることはできないのです。 人は自分が持っているものだけを与えることができます。見方を変えれば、もし私たちが真に何かを与えるならば、私たちはそれを持っていることを自分に証しすることになるのです。 与えるものが与えられる。この原則が正当であるのは、自分に与えられるものは自分が持っていなかった何かではなく、すでに持っていたものだからなのです。 優しさを差し

    • この世界の救いは私にかかっているとはどういうことですか

      この世界の救いは私にかかっている、救いは私から始まる、私が救われると世界は救われる、私は世界を救うことができる、私はこの世界の救い主の一人である・・・ これらは私と世界の救いとの関係を表現する言葉です。 これらの言葉に違和感を感じるでしょうか。これらの言葉が傲慢に聞こえるでしょうか。バカバカしくてあり得ない虚な言葉でしょうか。真剣にとらえるに値しない言葉でしょうか。 イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。世界の救いは私にかかっていると知っていたか

      • 兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるために

        兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるためには、その人に対して無防備にならなければなりません。自己防衛の心は、喜びに制限を課すことになるからです。 無防備になるためには、その人の無垢性を見る必要があるのですが、無垢性は今にしか存在できないのです。 もし、私たちがその人の過去を見ているとすれば、そこに無垢性はありません。 過去にあるのは、その人の罪と誤ちと偏見に彩られた幻想だからです。 兄弟の無垢性と出会えるのは今しかありません。この、今という時間の中で初めて

        • わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である

          イエスは聖書の中で、イエスと私たちの関係をぶどうの木とその枝に喩えます。 「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」 枝は木から離れては存在できません。枝の本質は、木の本質とまったく同じであり、どこからが枝でどこからが木であるかと定義することもできません。枝を含めた全体が一つの木なのです。 枝の外見はそれぞれ異なった特徴があり、独自のユニークさがありますが、本質はまったく同じです。 すべての枝は、ぶどうの木そのものであり、ぶどうの木の本質をすべて持っています。

        与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係

        • この世界の救いは私にかかっているとはどういうことですか

        • 兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるために

        • わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である

          無防備でいられないのはなぜですか

          もし、誰かに対して無防備でいられないとすれば、私はその人のことを危険な人物だとみなしているに違いありません。 私たちが赤んぼうに対して無防備でいられるのは、その子は私を傷つける危険なものではないと感じているからです。 私を傷つける危険人物の前では、当然自己防衛してしまうことになります。 別の言い方をすれば、自己防衛の態度が「あなたは罪深い危険人物に違いない」とその人に向かって宣言していることになるのです。 自己防衛をすればするほど、その信念は強められていきます。 も

          無防備でいられないのはなぜですか

          争いがない世界を見ることは可能ですか

          もし、罪悪感を感じていなければ、誰かを攻撃することはありません。 もし、誰かを攻撃したい衝動を感じるとすれば、その背後に必ず罪悪感が存在します。 罪悪感がなければ、攻撃したいと思うことができないのです。 攻撃したいと思えなければ、攻撃を正当化することもなくなり、争いは意味を失ってしまいます。 もし、罪悪感がなければ、個人においても、会社や組織においても、国家間においても争いは不可能になるのです。 争いが不可能な世界を想像できるでしょうか。 もし、想像できないとすれ

          争いがない世界を見ることは可能ですか

          同一性はどこにありますか

          忘れられてはいますが、私たちの中に、一度も失われたことのない往古からの平安が存在します。罪が決して触れたことのない神聖さの感覚が在るのです。 それは思い出されることを待ちながら、変わることなく今ここにあります。 名付けることも把握することも捉えることもできないもので、コントロールを手放してしまい任せてしまった時に初めて見えてくるものです。 誰のことも裁くことがなく、優劣の判断や価値判断をすることもなく、兄弟をありのままに自分と同じものとして見られる場がそこに開かれている

          同一性はどこにありますか

          心が抽象性に留まるとき

          私がもし営業の仕事をしているとすれば、具体的な成果を求められることは当たり前です。そして私自身も具体性な成果を追い求めるのです。 何らかの具体的な数値目標があり、それを達成することを目指します。 そのために具体的に何をするかを考え、行動するのです。そして、それを上手くやれる人が評価されることになります。それが上手くいったかいかなかったかで、一喜一憂します。 この方向の思考は営業だけでなく、日常生活のさまざまな場面に現れます。 この思考は苦しみをもたらしますが、その苦し

          心が抽象性に留まるとき

          心は抽象性に留まることができますか

          私たちの心に、この世界が提供する価値を信じる思いがあるならば、無意識にそれを求めてしまいます。 それを得るために何をすればいいのだろう、どこに行けばいいのだろう、誰にどのように働きかければいいのだろう、などと考えるのです。 今までの経験から、たとえそれを得ることができたとしても、それは一時的なもので、永続する喜びを伴っていないことは知っています。 しかし、具体的なそれを得ることは価値のあることに思えるのです。 また、それを得ようとする思いの中に、今それが得られていない

          心は抽象性に留まることができますか

          人間であることを疑いますか

          意識的に人間であることを選択している人がいるでしょうか。人間であることに疑いを持っている人がいますか。もしそんな人がいるとすれば、その人は精神を病んでいると言われます。 私たちは疑いなく自分は人間だと信じているので、それを意識的に選択することはないのです。 疑いなく確信していることに選択はありません。 あなたは自分のことを無垢なる神の子だと信じていますか。 おそらくそこには疑いがあり、無条件に確信していないのではないでしょうか。自分の本質が神の愛そのものであり、安らぎ

          人間であることを疑いますか

          つながることができますか

          つながることができますか。その人とつながることができるでしょうか。 つながりたくない人がいますか。どうしてもつながることを拒否してしまう人がいるでしょうか。 あらゆる人とつながることは可能でしょうか。 私の心があらゆる人とつながることを許すことができるでしょうか。 もし、決してつながりたくない人が一人でもいるとすれば、私の心はそれを許すことはできません。 孤独とはつながらない選択です。憎しみ、恨み、妬み、裁き、それらはすべてつながることを拒否する選択なのです。 つ

          つながることができますか

          自己防衛という心の動きが止むとき

          自己防衛は自己が危険にさらされていると感じるなら、なくてはならない心の動きではないでしょうか。 この世界は危険に満ちており、自分を傷つける可能性のある多くの脅威が存在するのです。 他者の言動によって傷つけられたり、予期せぬ病気や事故が生じたり、悪意や敵意が存在し、それが自分に向けられることがあったり、それらによって自分が傷つく可能性は大いにあるわけです。 傷つけられる恐怖を受け入れることはできません。 そのために、傷つかないように必ず何らかの防衛をすることになります。

          自己防衛という心の動きが止むとき

          ギャンブル依存症

          ギャンブル依存症という言葉を最近よく聞きます。ギャンブルの目的は表面的にはお金です。もし、お金に対する執着がまったくなければ、ギャンブルに魅力を感じることはありません。 ギャンブルやその他の方法でお金を増やすことにまったく魅力を感じなくなるのです。 魅力を感じなければ、それをする理由はなくなります。 どのような方法であれ、私たちがお金を増やそうとするのは、それに魅力を感じているからなのです。 その魅力はどこから生まれるのでしょうか。 それは、お金を自分でコントロール

          ギャンブル依存症

          源を選び直す力

          私たちの思考や想念には、それを生じさせる源があります。その源は恐れか愛かのいずれかなのです。恐れの思考や想念から、恐れに満ちた世界が知覚されるようになります。 私たちの知覚する世界は、内的状況の外的映像だからです。 もし、その源が無条件の愛であるならば、私たちが持つ思考や想念には平安が溢れ、知覚される世界は、穏やかで優しく、光に満ちたものとなるのです。 もし、その源を変える力が私たちの中にあるのだとすれば、無慈悲な世界を他者のせいにしながら嘆くことは、理にかなっていない

          源を選び直す力

          真の自己を見る

          言葉は対象となる概念を表現するものです。言葉はすべての概念の根底にある対象とならないものを表現することはできません。 真の自己は概念を超えるものなので、言葉で言い表すことができないのです。真の自己そのものを表す言葉はありません。しかし、真の自己についてであれば、色々な言葉で表現できます。 真の自己は変化することなく永遠に在るものです。生まれることも死ぬこともなく、傷つくことも攻撃されることもありません。 罪や悪や悪意や恐れや死によってさえ、何の影響も受けることはありませ

          真の自己を見る

          不完全な世界と完全な世界

          私たちは世界を不完全なものとして眺めています。それは、自分自身を不完全なものととらえていることから、必然的に生まれる認識です。 もし、私たちが真の自己に留まり、自分自身を完全なものと認識することができるならば、世界の完全性が見えるようになります。 完全性とは、心が過去や未来に彷徨うことなく、永遠の今である静寂にとどまる幸せなのです。 さざ波一つない永遠の静寂は、私たちの中に在り続けています。 それを見えなくしているものが不幸と呼ばれます。不幸は自我が連れてきたものです

          不完全な世界と完全な世界