この世界の救いは私にかかっているとはどういうことですか
この世界の救いは私にかかっている、救いは私から始まる、私が救われると世界は救われる、私は世界を救うことができる、私はこの世界の救い主の一人である・・・
これらは私と世界の救いとの関係を表現する言葉です。
これらの言葉に違和感を感じるでしょうか。これらの言葉が傲慢に聞こえるでしょうか。バカバカしくてあり得ない虚な言葉でしょうか。真剣にとらえるに値しない言葉でしょうか。
イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。世界の救いは私にかかっていると知っていたからです。
これらの言葉を自分自身に宣言することになぜ違和感を覚えるのでしょうか。
これらの言葉は、最も謙遜な心から生まれるものなのです。平安と謙遜は同じものです。
自我の喧騒の中では、これらの言葉に表現された真実は分からなくなってしまいます。
この世界は謙遜と傲慢を混同しており、謙遜を傲慢と呼び、傲慢を謙遜と呼びます。
私は駄目な人間だと感じているとすれば、それは傲慢さでしかありません。傲慢さは自我と同一化している心から生まれるのです。
すべての傲慢さを聖霊に手渡すことができます。聖霊はそれらを少しずつ謙遜へと変容させるのです。
自分を裁くことなく、自分がどれほど傲慢な考えを持っているかを認め、ありのままを聖霊に手渡してしまいます。
「世界の救いは私にかかっている」と何の違和感も感じることなく宣言できるようになるまで、傲慢さを聖霊に手渡してしまうのです。
傲慢さは幻想でしかありません。真のあなたは謙遜そのものだからです。すべての傲慢が取り消された場所に永遠に変わらない真の自己があり、そこに普遍的な幸せと安らぎがあります。
その時、自分がこの世界の救い主の一人であることを何の違和感もなく認められるようになっています。
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