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やるせない思い

自分の中にあるやるせない思いを見つめるとき、それは特定の人や出来事などと結びついていることを発見すると思います。

この人のせいで、この出来事のせいで私はこんなにもやるせない思いをしていると感じるのです。

それは人や出来事とは無関係で、自分から生じているだけであることに気づくことは困難です。

私たちの持つ投影という精神力動は、個としての「私」を守るためにどうしても必要なものです。

やるせなさは一つの罪悪感なので、それを自分の外に投影し、自己を防衛する必要があります。私たちの持つ自己を守る必要性は極めて大きなものです。

投影の対象とされた相手は敵として感じられ、一体性の感覚は失われます。

その代替えとして、自分の考えに共感してくれる仲間を探し求めることになります。

それは決して自分を幸せへと導かないとしても、それが正しいことであるという確信から、それを手放せないでいるのです。

それを手放すために苦しみは必要ないのですが、多くの場合は、苦しみが別の選択を求める動機となります。

苦しみが、自分が正しくあるよりも、平安でありたいと望む動機となるのです。

自分を苦しめていた投影という精神力動が聖霊に手渡され、それが無力なものとなるとき、そこにある安らぎはどれほど深いのでしょうか。

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