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ぶ膜(ぶどう膜炎)45年目の春

『食べると癒される🍎りんご』


今日の立科町は、曇り空かな、少し晴れ間が見えるかなという感じです。
亨さんは今日もぎゅうぎゅうに詰めたお弁当と水筒をもって五輪久保に出かけました。

🍎

昨日、白杖訓練をしてくださった先生が、望月にあるYUSHI CAFE(ユーシカフェ)というとても素敵なカフェに連れて行って下さいました。

目が見えなくなってから、あまりいろいろなところには出歩かなくなりましたが、時には上田市の学び合いの会という視覚障害者向けのiPhone勉強会に顔を出したり、昨日のように先生のご配慮で素敵なカフェに行ったりすることもあります。

今日はちょっと、私が見えなくなるまでのお話をしておこうと思います。
私は中学三年生の春に、急に眼が充血し、飛蚊症という黒い点と、もやがたくさん見えたので、近所の眼科に行ったところ、ぶどう膜炎という病気だと診断されました。

ぶどう膜とは?

大学病院で精密検査を受けてくださいと言われ、たくさん検査をしたのですが、なかなか炎症は収まらず、原因不明のぶどう膜炎であることがわかりました。
炎症を抑えるステロイド点眼や、座薬などを使って炎症を抑えてたのですが、高1の終わりごろに左目がほとんど見えなくなってしまいました。
右目も同様のぶどう膜炎ではあったのですが、当時ぶどう膜炎の専門の先生に診てもらいながら、見える右目を大切に、治療を続けておりました。

👆東京医科歯科大学 眼科学教室サイトより👆
ぶどう膜炎についての詳しい解説があります


高校生の時は突然目が見えなくなったことと、ぶどう膜炎が原因不明であったことで、もしかしたら右目も見えなくなるのではないかという不安があったように思いますが、大学生ぐらいになると、だいぶその炎症も落ち着き、見える右目を大事にしていこうという生活をしていました。

45年間の間には、見える右目の白内障の手術をしたり、黄斑部に針穴ぐらいの穴が開いてそれを埋めてもらい視力を改善していただいたりと、見えにくい時期もあったのですが、ぶどう膜外来の先生と私の共通目標は、見える視力を大切に使っていくという形で暮らしていました。

それが2年前、突然転んで目が見えなくなってしまったので、私にとっては、すっかり忘れていた、見えない世界の扉が急に開いたような出来事でした。
大変びっくりはしたのですが、トリガーとなったぶどう膜炎というものは、もしかしたらそういうこともはらむ病気なんだなということを、改めて思い知っています。

今は、明るいところに行けば明るさがわかるという世界で暮らしています。
いろいろできなくなったことも多いですが、毎日のご飯とお弁当作りは、私の楽しみになっています。


とてもざっくりですが、ぶどう膜炎になってからの45年間のお話をちょっと書いてみました。

そんなこんなで、今日もおいしいものを作ろうと思っています🍳

おからコロッケ入りお弁当!


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アロマセラピストの寿巳ちゃん、ご主人の亨さんと立科町へ移住、りんご農園を就農したのち、ケガで突然見えなくなってしまいました。 作業や生活に制限がある中、驚くほどのバイタリティで発信しています! よろしければサポートお願いします😊(編者記)