評価をこわがらないで


評価の評価

 今日はとある機関について自己評価されたことに対して、関係者がその適切さについて評価する評価委員会。評価の評価ってなんやねん、とツッコミたくなりますが、よくある話です。
 自分たちのことをなんだかんだよくわかっているのは自分たち!という前提の元、自分たちの活動や事業を評価し、それを第三者の様々な方に適切に自分たちを把握していることを確認してもらうのです。
 そうすることで、主体となっている機関では、自分たちがやっていることは正しい!と思ってしまうバイアスを解きほぐし、やっぱりこうしようか、と微調整することに繋がります。
 活動や事業そのものを評価しようとすると、「あんたたち、普段見てないじゃん!」と評価者にツッコミが入るかもしれません。上から目線、無礼な越境、寄り添いなき援助は、いつだって反発されるものですよね。
 めんどうなようでいて、必然的に生まれた「評価の評価」。これはミュージアムを含むどんな機関であっても必要なことです。

委員会の最中に

 そんな評価の評価のさなか、ある委員さんが切り出します。「これ意味あるのかなぁ」。言いたくなるのはわかります。がんばってる人たちを助けたいのに、こんな評価して改善点など指摘することが必要なのか?という気持ちではないかと思います。
 ここでふと思ったのは、評価とはそもそも何なのか、ということです。AからDや5から1、○○%。基準となる数値を並べることが評価でしょうか?すべてをAにすることが求められるとしたら、1つの項目だけならできるかもしれませんが、項目が複数あって、多層的・複層的だった場合、矛盾せずどの項目もAにできることはなんだか想像できません。
 中学生の頃憧れた、かっこいい生徒会長。野球もできて勉強も優秀で、ユーモアもある。素敵な人だったけど、なんだか抜けているところもありました。その抜けているところはきっと評価されたら「B」。私はその「B」を「A」にしたくはないな~と思います。
 その「B」は彼の魅力を際立たせ、魅力そのものにもなるものだったから。
 こんなことを考えていたら、きっと評価とは、その「B」を「B」として認めること、いいところだと太鼓判を押すものではないかと思いました。
 評価は、現実として見えてきたユーモアや欠点も含めて、いいところはここじゃないかな、と提案するためにやっていくといいのでしょう。

こわがらなくても大丈夫

 評価することが、自分の能力や常識を基準に他者や他機関を比較することだったら、なんだか自分が試されるようで、評価するのこわいですよね。
 まして、その考え方で自分を評価しようとすると、他者や他機関を基準にして、知らぬ間に優劣の世界に落とし込まれ、息苦しくなりそう。
 これに比べて、いいところを引き出すことが評価だとすると、やればいいのは、評価される対象がそなえていることや培っていることを見つめて寄り添うことだけです。うーん、これならこわがらずにできそう。

学芸員のまなざし

 結局ここまで考えて、自分がやっぱり学芸員だということを自覚しました。なんせ普段資料や作品を見つめる時にやっていることと同じだな、と思ったからです。
 川に転がっていた石ころひとつ。これはどこどこの川の支流から流れてきた、何千万年前の何層の石ではないか、、この形は山から数十キロを越えて流れてきたから丸くなったのだ。なんと愛おしい形だろう。自然が作り出した美だ!!と最近興奮したことがありました。
 ただの石ころで、なんの役にも立ちません。けれど、いいところを見つけて、その石を資料として扱ってしまうのが学芸員です(でもこれはちょっとマニアックかな笑)。
 どうしようもないところも見つめてしまう。学芸員こそ評価オタクなのかもしれません。
 話は戻って「評価の評価」。そしたらやっぱり評価だけでいいじゃん!と思うかもしれません。いや、でもやっぱり学芸員に重ねても、必要なことがわかります。
 興奮して見せびらかした石ころに、冷ややかなまなざしを注ぐ同僚、知人。「それで?」という意味をまなざしから読み取って、ひゃーっとなって別の資料も探しに行くのでした。やっぱり大事なんだろうね、「評価の評価」。

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