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世界一周12か国目:イラン美術

今回は諦めよう仕方ないと何回も自分に言い聞かせたイラン。本当に美しい国でした。

事前準備

ビザ申請

 まずイラン入国にはビザが必要です。日本人は空港でアライバルビザが以前は取れていましたが、2022年12月時点の情報でアライバルビザが停止しているとのことだったのと、当初はトルコのヴァンからイランのタブリーズまで陸路国境越えを予定していたため、イスタンブールのイラン領事館にてビザ申請しました。イランビザ入手は昨今の情勢もあり、在日本国イラン大使館での申請以外はやや難しくなっています。私はイスタンブールのイラン領事館に何度も突撃し警備員と密にコミュニケーションを取り内部の人を呼び出すなど試行錯誤して登録フォームを入手しました。こちらのビザ部門は基本的に火曜日と木曜日の午前9時から11時まで。そこに登録フォームを提出し料金を支払いeVisaの発行が完了となります。在外公館での手続きが必須でもはやeVisaではありません。
 当日、私の登録フォームは弾かれました。「国籍が中国人になっているからだ。」と職員。その情報を登録したのはあなたの隣にいる女性だと言うと笑いだす担当者の女性。その他にも多々問題はありましたが、長い闘いの末ビザを取得しました。

ネット規制

イラン人が常備している多数のVPNアプリ

 イランは中国に並ぶネット規制大国なので、イランで使えるVPNを事前に準備しました。宿はbooking.comは使用不可のためhostelworldで事前にピックアップ。目星を付けた宿と近場の駅などをオフライン地図アプリのマップスミーに事前登録。空港から市内までの移動手段、都市間移動の公共交通機関などの情報収集を入国前にしました。
 ただ入国後にわかったことですが、半年前に激化した政府と国民との対立によりネットは見事に遮断されていて過去の情報すべてをネット規制が上回っていました。用紙したVPNは使えず、以前はVPN無しでも使えていたアプリも機能せずでした。イラン人はみんなVPNを10種類以上持っていて日々その日使えるものを試してネットに接続していました。
 過去のネット記事はあてになりません。

現金のみ

テヘランの空港で両替した約5,000円分のイランリヤル

 イラン国内では経済制裁によりカードが使えないため事前にユーロかドル紙幣を用意する必要があります。テヘランでは稀に日本円を両替してくれるところもあるようです。トルコにはユーロまたはドル引き出しができるATMがあるので私はユーロを準備して行きました。空港ではトルコリラも両替できました。
 コロナ以前のネット記事にはドルが主流とありますが、現在はユーロが主流。宿代もどこもユーロまたはイランリヤルです。

イラン美術

ゾロアスター教

ペルシャバンスフィンクス(有翼人面獣身像)

 イラン入国当日の夜行バスで、テヘランからそのまま来たのはシーラーズ近郊にあるペルセポリスです。トルコのヒエラポリスなどと同様、ポリスは街や都市を意味します。ペルセポリスはペルシャ人の街。つまりペルシャオブペルシャです。ペルセポリスが国教に定めていたのは火や光を信仰対象とするゾロアスター教。ペルセポリスは、ゾロアスター教の宗教儀式を行う場でした。もしまたデモなど激化したとしてもここだけは来ておきたくて入国後最短で来たのです。そして翌日も行きました。

 上の写真はペルシャ版スフィンクスです。論文表記は有翼人面獣身像など。エジプトのスフィンク同様、狛犬の起源となります。ヨーロッパでは家の玄関に狛ライオンがあります。日本で狛犬となったとはライオン不在のためです。沖縄のシーサーの方が原型に近いと言えます。

有翼日輪他 ハンガリー国立西洋美術館蔵

 西洋では龍に翼があります。空を飛ぶには翼が必要という概念です。古代エジプトでは太陽にも翼があると信じられていて、有翼日輪という図像があります。フンコロガシまたの名をスカラベが転がしている糞もとい太陽が古代エジプトの信仰対象です。
 ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダを表す図像Fravaharは、有翼日輪にペルシャの王を付けたもの。このスカラベをペルシャの王に置き換えたものとも言えます。

ペルセポリス各所に見られるFravahar
ペルセポリスの有翼日輪

 後にキリスト教では、顔に翼が生えたケルビムcherubimやセラフィムseraphimと呼ばれる天使に形を変えて受け継がれています。

ケルビムの例 ヴェネチア・アカデミア美術館蔵

 アフラ・マズダのアフラは空、マズダは光を意味します。空の光、つまり太陽神でもあるのです。モスク外観のペルシャブルーは空の色と言われますが、アフラ・マズダの系譜を引いているものと思われます。そしてモスク内部ではステンドグラスを多用して太陽光を取り入れています。この組み合わせはゾロアスター教の信仰対象をそのまま引き継いだとも捉えられます。
 ヤズドのゾロアスター教寺院には、1500年以上燃え続けている火を拝みに日々たくさんの人が訪れます。太陽も燃え続けています。イスラム教が根付いた現在は寒色系のイメージが強いイランですが、ペルセポリス復元図の色を見てみると暖色系が強いのです。

ペルセポリス復元図 『イラン国立博物館 コレクションが語るイランの歴史』p.137より引用
1500年以上燃え続けている火

 アレクサンダー大王は、火を信仰対象としていたペルセポリスに火を放ち廃墟としました。イランにおいて、ゾロアスター教に続く国教であるイスラム教に移行する際の絶好の口実になったに違いありません。

ヤズドにあるゾロアスター教寺院
ゾロアスター教寺院にあるFravahar
ゾロアスター教寺院隣接の展示室

 上の写真左側がゾロアスター教徒がお祈りしている様子です。彼らは1日に5回、光に向かってお祈りします。お祈り前には手と顔を洗うなど、身体を清潔に保ちます。エジプトの太陽信仰とイスラム教とキリスト教が合わさったような感じです。
 イランではムスリムも写真のように両手を挙げてお祈りしているのを見かけました。イランのモスクでは中央のドーム両側にそれぞれ1本ずつミナレットが見られますが、それはお祈りしているときの頭部と両手だとも言われ、ここにもゾロアスター教の影響を指摘できます。

シーラーズ ホーリーシュライン

 下の写真はヤズドで見たゾロアスター教博物館。ゾロアスター教の宗教儀礼の場だったペルセポリスに隣接していてほしかった博物館でした。ただヤズドもゾロアスター教の聖地なのでこっちもこっちで必要となります。ヤズドに行けばペルセポリスのこともよりわかる、というような誘導があればペルセポリスでの消化不良も解消できヤズドにも人が流れていいと思います。

ヤズドのゾロアスター教博物館

 以下はイラン国立博物館にあるペルセポリスの展示です。まだ色を確認できるレリーフが保存されています。こういうタイル系は、釉薬で色を付けて1200℃前後の高温で焼いてガラス質に化学変化しているため風雨に負けないのです。

ペルセポリス装飾 ペルシャ帝国の兵士 テヘランにあるイラン国立博物館蔵

 色の使い方もモチーフもかなりエジプト寄りです。ペルセポリスではエジプトの工芸品も多く見つかっています。交流があった証拠です。
 イランではこのような表現に見られる交流の軌跡が見たかったのです。アジアとヨーロッパ、エジプトの間を埋めるのはペルシャしかないと思っていました。やっぱりペルシャでした。太陽信仰との間にゾロアスター教があるのも納得です。インカ帝国の太陽信仰もとても楽しみです。

ペルセポリス装飾 スフィンクス テヘランにあるイラン国立博物館蔵


イスラム教

炎のようにも見える模様 イスファハーン シャー・モスクにて

 ゾロアスター教に続いてイランの国境に定められたイスラム教。アラベスク模様の中には炎のように見える図像があったり、イランのモスクではステンドグラスを多用して太陽光を取り入れています。ペルセポリスの時代から長らく国教だったゾロアスター教が神聖視する火や光など基盤となっている宗教観に馴染みやすくするための施策だと思われます。
 前の宗教を塗り替えるのは布教活動最大の課題だったのでしょう。紀元前に根付いた信仰とその偶像から派生させた形の紀元後の宗教。起源を同じくする3つの宗教キリスト教、イスラム教、ユダヤ教がイェルサレムを始めとして対立するのにも納得です。

ピンクモスク内部 7色のステンドグラス
ピンクモスクのタイル

 こちらはシーラーズにあるピンクモスクと言われるモスクです。ここを手掛けたタイル職人がピンクが好きで、ピンクの顔料に金を混ぜて焼き上がりの発色をよくしたとのこと。ここもステンドグラスが多用されています。光の色7色でその表向きな理由としては、カラフルな光はお祈りに来る疲れた参拝者を元気にする、このカラフルな光の色を蚊が嫌い夏にモスクに入って来なくなる、と言ったものです。
 ただゾロアスター教の最高神アフラ・マズダの創造神話に7色の光も出てきます。おそらくこれが本来の理由で、ゾロアスター教からスムーズに移行させるための施策です。

シーラーズHoly Shrine

 Holy Shrineはシーア派ムスリムの聖地で、代々受け継がれてる血統、シーア派指導者イマームの兄弟のお墓です。全面鏡張りですがどこを見ても自分の姿は歪んでいたり部分的にしか見えません。自分を見つめる場ではなく神と向き合う場であることを意味しています。
 神と話したいことがあったらまずお墓に眠ってるイマーム血統の人に言ってそれを神に届けてもらい、神からの返答をイマム血統の人経由で伝えてもらうという流れで神と繋がるようです。神の存在有無やその種類は違いますが、日本のお墓と似ている気がします。

イスファハーンのイマーム広場

 イスファハーンのイマーム広場。イマームとはイスラム教シーア派の指導者。モスクの中でお祈りするときにメッカの方角に必ずあるメヘラーと言われる場所にお祈りの手本となる人が1人いてその人も広義ではイマームです。ゾロアスター教では光に向いてお祈りしますが、イマームが立つところは必ずメッカ方向。ムスリムは必ずメッカの方向を向いてお祈りします。
 グループの統率者としてのイマームは大勢います。ただしこのイマームは、お祈り時以外は一般人です。
 イマーム広場のイマームは、イラン革命で成立した現在のイランイスラム共和国の最高指導者を指します。革命前までは王の広場と呼ばれていました。

イマーム広場のシャー・モスク

 このようなモスクの美しい模様を取り入れたのがペルシャ絨毯です。


東洋と西洋の間

イマーム広場 アリ・カプ宮殿壁画(下の壁画の左隣に位置する)
イマーム広場 アリ・カプ宮殿壁画(上の壁画の右隣に位置する)

 イスファハーンのイマーム広場にあるアリ・カプ宮殿。壁画のこの一角だけでも中国からヨーロッパまで各種表現様式が見られます。シルクロードなどを通して世界各国と繋がり、各地の産物と富が集まっていた当時のイスファハーンを象徴するような絵です。
 画面左側の人物画は東洋的描き方で、線で描いています。東洋画の影響を受けてイスラム圏で発達した細密画(ミニアチュール)です。こちらは背景の山水画も東洋的に描かれていますが、一方でその右隣に位置する壁画は部屋のカーテンや窓枠の向こう側、外側に見える風景などに西洋的特徴が見られます。

チェヘル・ソトゥーン宮殿壁画
チェヘル・ソトゥーン宮殿壁画

 宮殿は人をもてなしたりパーティーを催す場で神聖な場ではないため人や動物も描かれています。

南インド タンジャーヴ―ル マラーター宮殿

 チェヘル・ソトゥーン宮殿内部装飾を見て思い出したのがこちら。南インド、タンジャーヴ―ルのマラーター宮殿です。写真を見比べてみたら全然違いましたが、当時の体感としては近しいものを感じました。
 マラーター宮殿は、仏教やヒンドゥー教を基盤としたインドがイスラム教や西洋の影響を受けた後に生み出した造形。ゾロアスター教を基盤としたイランがイスラム教や東洋、西洋の影響を受けた後に生み出した造形にインドの一例を重ねて見たのは、東洋と西洋の中間色を感じたからです。

イスファハーン イマーム広場 ケイサリ門壁画
テヘラン ゴレスタン宮殿

 こちらはテヘランのゴレスタン宮殿。当時の王がヨーロッパに行き好きになってつくったのがこのタイルでした。イスファハーンまでの時代は空の色ペルシャブルーが主流でしたが、テヘランを都に定めた時代からは黄色が主流となっています。きっと当時の王が影響を受けたのはイタリアスペインでよく見られるマジョリカタイルだと思われます。このタイルで多用される黄色のモチーフは、地中海貿易で船乗りたちに欠かせなかった壊血病予防のレモンだからです。

テヘラン イマーム・ホメイニモスク

 イラン革命の指導者イマームホメイニのモスク。こちらも黄色がメインです。イマームホメイニのイマームとはイラン革命の偉大なリーダー、その時の統率者としてのイマームです。


イランの色

 自分の色を研ぎ澄ましていく島国とは異なり、陸続きの国々は常に影響し合います。
 古代エジプト、ゾロアスター教、イスラム、東洋、後に西洋の文化も吸収した底知れぬ吸引力ですが、共通項を増やしても自分の色を出せるのがイラン美術の強さだと感じました。
 各種異なる文化圏の影響を受けた後も固有の色を持ち続けられるのは、イスラム教がゾロアスター教の多くを受け継いだように、長らく続いたペルシャ帝国の時代に確固たる基盤を確立したからだと思います。


アジア人差別

街中で

 旅中ふと気づきましたが、インド同様イランにも中国人がいません。
私を見たときの反応もインドと同じです。チーニチーニ。ニーハオ。ヘラヘラゲラゲラ笑う。チンチャンチョンチンチャンチョン。ホワァーアチョーー。特にヤズドではチーニチーニチンチャンチョンとか言うために、吊り目のポーズするために、わざわざバイクで車道から歩道に割り込んで来て横付けしてくる人が多数いました。
 余談ですがこちらでの中国人の呼び方はチーニ、チーノ。中国の古い呼び名は支那。英語のチャイナをローマ字読みしたらチーナ。ラテン語系で男性名詞がチーノ、複数形がチーニとなります。中国というのは日本語読みなのですね。

車道から歩道にバイクごと割り込む人々

 ヤズドで地元民に人気のケバブ屋街に行った際も、中国人にケバブは売らないと追い出され、隣の店でもそう言われ追い出されました。店の中で食べていた人は両目の目尻を引っ張る吊り目のポーズ。
 帰り道、すれ違う人にいつも通りサラームと挨拶するもこの日はなぜか挨拶を返されず、無視され通り過ぎた後にチーニがサラームって言ったとゲラゲラ笑われる始末。まあこういう日もあると言い聞かせながらも、ゲストハウス帰宅後はなんだかぐっと疲れて強烈な睡魔に襲われ睡眠。1時間後起床。疲れが晴れていました。防衛本能の一種かもしれません。
 なんでこんな国の美しさを見て回るんだろ、と思ったときもありました。一息つきたいときにネットも見れず、息継ぎ無しで泳いでいる感覚でした。

バスターミナルでの待ち時間

 英語堪能な女性と英語ができない男性2人とバスを待っていました。男性に日本から来た?メイドインジャパン。と片言で言われ、何度も言われてきた言葉なので適当にあしらうと、女性が面白くないと男性に一喝。話を聞くと、女性の母親は日本で働いていたことがあるとのこと。
 きっと教育レベルの高さと、外の世界を知っているか知らないかの差なのです。知らないことに敬意を払うことはできません。特に今の情報統制下ではきっと偏りも出ます。

 伝統的な服を着ると大きめの都市では笑われるから着たくないと、普段地元では着ているというイラン人が話していました。
 個人的な経験を付け加えると、転校するたびに体操服や絵の具セット、方言の違いなどいろんなことで笑われてきましたが、違いを笑う人は、所変われば常識も変わるということを知らないのです。
 つまり目の前の人に笑われることがイコールそこに、その人に価値がないということを意味しません。あらゆる文化に影響されながらも固有であり続けたイラン美術だからこそ、そこに発信したい美しさと強さがあると思っています。


経験から判断する

 上記イスラム教の項目で取り上げたholy shrine。実は訪問日の1か月半前ここにISが攻めてきて多数の死者が出ています。デモのニュースばかりやっていて知りませんでした。デモが悪化する一方で収拾がつかない、のような記事で溢れていたのにそんな気配は微塵も感じないどころかテロ被害を受けていたのです。本来周知されるべき情報と拡散されている情報の差が大き過ぎます。
 Holy Shrineにて、「ISはどこの国のテロ組織か知ってるでしょ?」と聞かれ、イラク?シリア?と答えると、「そんなわけないアメリカだよ。」と言われました。
 Holy Shrineはシーア派ムスリムにとってとても重要なところです。そこを攻撃したISは何派なのでしょう。以前訪れたウズベキスタンは主にスンナ派です。ウズベキスタンで出会ったスンナ派ムスリムの人たちは、イランはムスリムの国だ、いい国だと言っていました。つまりISはシーア派でもスンナ派でもないただのテロ組織です。主にムスリムが標的になっています。中東は主に被害者です。
 日本に入ってくる情報が、いかにアメリカのフィルター通過後のものであるか、この後も日々痛感しました。日本ではアメリカが平和維持の要的イメージで教育やニュースで日々情報を浴びていますが、中東ではアメリカが悪として情報を浴びています。立場が違うとこうも見方が変わるのです。

 先日イランでデモが過激化した以降の、現在のイメージは政府を転覆させたい革命支持派が作り出したイメージです。革命支持派としては、平和で美しいイランに来てもらわない方が都合がいいのです。

 上述したように心無い言葉を多く浴びたのも事実ですが、一方で同じくらいたくさんのおもてなしも戴きました。イランの美味しいご飯をぜひ食べて行ってくれと、通りすがりにご馳走して下さったり、ぜひうちに泊まっていってくれとたくさんの人に声をかけて頂きました。
 こんなに温かく歓迎してもらっておいて、そうではない人の声をイランの声と捉えるわけにはいきません。イランは美しい国だとちゃんと自分の経験から言いたい。そのために来たのです。

どこの国か問題

 どこの国か問題は旅していると無視できません。入国歴があると入国拒否される国や、口に出すと嫌がられる国など国によって問題が多々あります。サマルカンドはイランの首都だったと主張したり、タイ人がアンコール遺跡群を元は自分たちのものだと主張したり、トルコもギリシャを元はギリシャのものだと、ギリシャもイスタンブールはギリシャのものだと主張します。どの国も歴史的に自国と関わりのある地域を自国の領土だと主張しています。北方領土的問題は世界的には普通なのです。
 領土争い然り主張せずにはいられない陸続きのお国柄が、時に差別的表現に繋がるのかもしれません。

世界の美術を巡るわけ

 基本的に上述した差別や領土問題は政治的、経済的取り組みから派生するものだと思います。
 共通項や違いが争いの元になる政治的、経済的視点と異なり、文化的視点では共通項も違いも世界各地のストーリーを楽しむための宝となります。橋を架けるのは、文化の役割なのです。文化的特徴を美術という視点で見て回っているこの世界一周で、私は橋を壊すのではなく橋を架けたいのです。
 学ぶことがたくさんあったイラン旅でした。


イランのまとめ絵日記


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