ディベート甲子園「名講評・判定」スピーチ“列伝”最終回 久保健治

第21回ディベート甲子園(2016)
高校の部・準決勝 第1試合
論題「日本は国民投票制度を導入すべきである。是か非か」
肯定側 鎌倉学園高等学校(神奈川県)  否定側 筑波大学附属駒場高等学校(東京都)
主審・久保健治(全日本ディベート連盟 専務理事、日本ディベート協会 理事)
動画はこちら

第1部 講評・判定スピーチ■

<1.> 判定

<1.1> 「戦うことでしか理解出来ない不器用な友情」

はい、選手並びに招集の皆様、お疲れ様でした。
ディベート甲子園3日目、準決勝です。

今回の試合ですけども、私がこの試合を見て思ったことは何かって言うと、ディベートっていうのは本当にコミュニケーションなんだなっていうことを強く感じました。

もしかして今日初めてディベートを見た方は、あんなに早いスピードで話して何でコミュニケーションなんだと。思ったかもしれない。

それはあるかもしれませんけれども、実は我々から見てみますと今回の試合というのは恐ろしいまでにコミュニケーションをとっていると、言う気がします。

例えとしてはですね、まるで少年漫画のような「戦うことでしか理解出来ない不器用な友情」みたいな。

そういう試合を見せて頂いて本当にジャッジ冥利につきるなと、いうふうに思います。

ではどこにコミュニケーションがあったのかを踏まえながら、今回の試合を見ていきたいというふうに思います。

<1.2> コミュニケーションとは

まずですね、本論に入る前に一つ、ここの試合から是非学んで頂きたいことについて。先ほど言ったコミュニケーションです。これは反論というのは相手のことをよく理解すると言うことでもあります。今回否定側第二反駁が、何度も言っていたフレーズがあります。それは「彼らはこういうことをいってくると思いますが、こういうふうに伸ばしてくると思いますが、」というものです。あれはどういうことか。

別に肯定側第一反駁は僕たちこの議論を伸ばしますとは言ってない。一言も言ってないです。ですが、あの肯定側第一反駁が終わった段階で、肯定側はこれとこれとこれを伸ばしていこう、もし後半の材料が手薄だったら、こういうふうに投票理由にしていこう。っていう意思があるんですね。否定第二反駁がその意思を感じて、それを事前に防ぐような形で伸ばしてきたとしても否定側に投票してくださいと言う言い方をしていました。これがまさにコミュニケーションなんです。

このときお互いに一言も直接話し合っていません。言葉にならないのにコミュニケーションが取れているというこの恐ろしさ。

これが出来た背景として、両チームとも関東甲信地区と言うことで、シーズンが始まってから何度となく恐らく練習試合をしてきて、切磋琢磨してきたことがあると思います。だからこそですね、ここまでの試合ができたんじゃないかというふうに思います。

そう考えると、ある意味で今シーズンのディベート甲子園の集大成の一つとして準決勝が行われたんだろうな。そういうふうに感じさせてもらいました。

<2.> 判定

それでは、今回の試合ですけれども、肯定側、否定側が、それぞれどういった議論をしていたかっていうことを振り返っていこうかなと思います。

<2.1> 論点評価:メリットの評価

まずは、肯定側のメリットから入っていきたいと思います。

肯定側がどういったことをいっていたかと言いますと、自己決定の大切さというお話をされていて、国民が自らの意思によって政策に自分の意思を持っていくことが重要なんだと言っていました。

まず大前提として、今の選挙制度は不備があるというような考え方を言っています。パッケージという言葉を使っていましたが、たくさんのことを決めないといけないことについて、人と全く同じ意見になることはない。だけどこの人のここまでは賛成だけどこの部分に関しては反対なんだよなって言ったときに、それを意思する方法がないんだ。その結果問題は2つある。一つ目は政策が押し付けられている。

例えば、国民の多くがとある立候補者のある政策については反対だなって思っていたことがあったとしても、大きな政策では賛成。こういう議員が当選する。そうなると、議員が「私たちは国民の信頼を得ました。だからこれぐらいやってもいいんです。」っていうふうに言って、本当はみんなが反対していることを結構やってしまっているんじゃないか。それが結果押し付けになっているんじゃないかと言うお話。

二つ目は説明不足ということで、責任追及という形でした。パッケージとして持っているので、一つ一つに対して責任追及していくタイミングや時間がないので、結果として説明不足に陥ってしまうんじゃないかというお話をしていました。

これに関して国民投票をするとこの問題は解決するんだというふうに言っています。

どういう事かというと、政策の押し付けに関しては、個々の問題については国民投票という方法で解決することが出来るから大丈夫だという話。それから、署名を集めていく段階でいろんな人に協力を得なければならないので、その過程の中で色々と収斂していくこと。本当にコンセンサスを取れた物だけが残っていって、あとはふるいにかけられるだろうというお話でした。

説明責任に関しては、もしかしたら、自分たちがやりたい法案があったのだけれども、そのやりたいっていう法案が否決されてしまうかもしれません。国民投票によって逆転されてしまうかもしれない、それは困るということで、あらかじめ事前に自分たちに協力をお願いするためにも情報をどんどん前倒しに出していくんだよ。という話をしていた。

で、重要性といたしましては、その国民主権。日本は民主主義で国民が本来的には権力をもっている。国民が国の方針を決めるべきだという立場にたっているんだから、国民主権というものを徹底するためにも重要であろうと。大体概要としてはそういう話でした。

<2.2> 論点評価:デメリットの評価

デメリットはどういう話だったかというと言いますと、国益の喪失ということでした。ここのところ肯定側と否定側で非常に綺麗に分かれているところですね。

否定側は何を言っているかと言いますと、現在の政府、あと官僚ですね、ここで重要になってくるのは官僚です。現在の日本の政治というものは官僚が中心になって作っているんだよっていう現状をまず指摘しました。その上で政策には2つの種類がある。

この点ですけれども非常によい分析だと思います。政策と言ったときに小さいことから大きなことまでたくさんあるわけですね。

例えばですけれども、町の小さな話であれば、交差点に鏡をつけるって言うのも政策ですし、今回出てきた安保っていうのを同じように政策。いろいろ種類が違う。その中で、今回の国民投票という問題についてと考える時は国会運営に関わる中心政策とパッケージ政策の2つがあるんだ。で、これについて考えようというふうに指摘したのはとても良いやり方だというふうに思います。

話としましては、中心政策というのは官僚と言った政治的に中立な立場の人が長期的な視点で作っている。パッケージ政策に関しても実は官僚が作ったものを色々ミックスしていて、それを今選んでもらっているんだ。で、これは絶妙なバランスが実はある。ある部分においてはある政策を通されるような関係になってしまうなどの、その対立するものを綺麗にまとめようと、そういう調整が国民投票まではどうなるのかといった形をしているんですね。

で、ここで実際にその国民投票を導入するとAとしては、国民としては長期的な視点を欠いてしまっているというふうなお話をしています。

具体例として上がったのは、今回大きな議論にもなったイタリアの原発の話です。

イタリアはチェルノブイリの事件が起こったときに原発を廃止しようという動きになって、結果電力不足が起こってしまい、さまざまな機能が麻痺したりして、大変なことになった。でも、今回の福島の事件が起こった時にまた同じムードに流されて投票してしまったとういふうなお話をしていました。

Bのパッケージについては別の国のお話が出てきています。アメリカのカルフォニアの例ですね。カリフォルニアでは税金を安くしようと、いった法案が通った。結果として、税金が安くなればその分収入が減ってしまうので、社会サービスが非常に低くなってしまった。まさにこれはパッケージのバランスを欠いているんじゃないかという話をしていました。

最終的に、国は長期的な視点に立って物事を判断していくべきだということをいっていました。

<2.3> 議論判定

さて、今回の試合の中でたくさんの議論がでてきました。ちょっと整理しましょう。今いったように肯定側のメリットとデメリットで大きく分かれていることとしては、肯定側は国民の民意というものをできる限り取り入れていこうじゃないかという方針に対し、否定側はただ単に民意を実現させるだけでは不十分で、それを参考にして、結果的に一番いい方法は何かというのを考えるのがベストな方法なんじゃないかというふうに、それぞれの考え方が大きく立論段階から対立している、そういう構図になっていると思います。

実際の議論の中身を見ていきます。まずは肯定側の立論から。肯定側の立論ですが、否定側から大変多くの反論が出ております。1個1個やっていくと時間がいくらあっても足りなくなってしまうので、ここでは中心になったところを詳しく説明する形で進めていこうと思います。

Aの部分の政策の押しつけということに関して、否定側は実は議員というのは。自分の党内の出世という話を軸にして反論を持ってきました。ここのところなんですけども、ジャッジの見解は一致しています。肯定側が途中でも言っていましたが、否定側は議員がいいと思った物を最初出すんだという話をしている、それは多分そうだと思っているんですけれども、それは国民サイドから見れば望んでないのにいいからやってね、っていうふうに言われているんで、それは押し付けとなる。国民サイドからある意味押し付けという言葉を使えば押し付けになる。ここは言葉のあやみたいな感じですね。結論的に言うと、この反応自体はその否定肯定側の入っているロジック自体を否定するものではない。どちらかというと否定側のデメリットを強化するような形の反論だったんだろうなというふうに判断しています。

ここでまた一つみななさんぜひ学んで頂きたいことがあります。今日の試合でとてもよかったところ。それはですね、否定側の反論の構成なんですけれども、今回フローシートを見て頂いた方の多くは分かると思うんですが、解決性のところに関してかなり多くの反論が当てられています。これはですね、ものすごくいいことですね。

否定側の基本戦略としては解決性を攻撃するというのは最も効果的です。なぜならですね、内因性と呼ばれる現状分析するところ。今回の議論は特に顕著なんですけれども大体が事実ですよね。事実を否定するのって大変ですよ。だいたい肯定側だって否定できないだろうって事実をもってくるんで。そうするとですね、この内因性、つまり現状問題があるっていうところを反論でゼロにするのはかなりハードルが高いです。なので、実は反論してゼロにする可能性というのは内因性に対して極めて高いんですよ。一方で解決性への反論は違います。その現状の問題が本当に肯定側のいう方向で解決するのかしないのかということについては、現在やったことがない問題なのでより不確実性が高いから解釈の余地が多くて反論できる可能性は高いんです。

ですが反論しやすいのは意外と内因性だったりするんですよね。資料があるから。だからそっちに飛びついちゃう。解決性を反論するのは一手間必要なんです。全部が想定の話ですからね。例えば、ある筆者が言った資料を持ってきたときそれが今回のプランに本当に該当するのかしないのかってところを考えてこれはこういう理由で該当するな、だから今回のこのプランでは解決しない。前提条件が違う。そういうふうに一手間を加えなければいけないから解決性に対して攻撃するときはターンにエビデンスを集めるだけだとやりにくい。故に実は反論が出にくいんです。

今回はですね肯定が言って否定側がそこに対して解決を徹底的に攻撃してきてる。ディベートにっとても極めてレベルの高いと思います。今後ディベートを続けていかれる際、また実生活においても、問題が大事なのは分かった、でもこのやり方でいけるのかいけないのか、本当にこの方法で解決するのかしないのか、そこについて考えるための訓練としてディベートは極めていいトレーニングだと思いますので、そこはぜひ活用して頂ければと思います。

ではその反論が今回どうだったのか。まずですね妥協の余地がないんだって肯定が言っているんだったら、じゃあ妥協の余地がないんだったらしょうがないんじゃないのって話がありました。ここのところですけれども、妥協の余地がある問題とない問題がそれぞれあるよねっていう事で落ち着けるというふうな話かなと思います。

で、妥協の余地のない問題っていうのが一体どれだけ大変だろうというところ。それからもう一つあったのが。討議っていうのは実は極端な立場になってしまって、話を討議すれば討議するほど対立が先鋭化してしまうという話ですね。これはまあディベートをやっている身からするとちょっと非常にショッキングな資料。ある意味ではこの試合がそれを否定しているんですけれども、この試合ではとりあえずまあこういう資料が出たと。

これに対して私はとてもいいなと思いました。なにがいいかなっていうと一つはですね、この資料って多分「国民投票」って書いてある本を読んだだけで見つけられない資料だと思うんです。ここに書いてあったのは恐らく要するにコミュニケーションとかの分野、議論をどう進めていくかってとかは国民投票からは少し外れた部分での証拠資料を引っ張ってきたと思うんですね。この姿勢は是非みなさんに学んで頂きたいです。

1つの論題があるときにどうしても、僕たちは国民投票と論議を与えられたときにリサーチするのは国民投票について書いている本を探してしまう。ですが国民投票というのをもう結局は世の中にあるいろいろな議論や動きの中で構成されたひとつのカテゴリー過ぎないということですね。

国民投票という事象には国民投票というタイトルの本に書かれていること以外を超えた、例えば心理学とか行動経済学とか多様な分野があります。大学にいって学ぶ専門分野になってきますけれども、いろいろな分野で行われている研究というものを参考しながら国民投票は最終的にどうなるのかということを研究しているわけです。そういった面で単に論題の方向やこんなに関係するようなのだけを調べるのだけではなく、広くいろんなエビデンスを見ていく中でそれを反論や試合に活用していく、この姿勢は本当に重要な観点ですし、ディベートで学べるとても大きなところですので、今度ディベートされる皆様はその点を意識されて、今後のリサーチに活用していただければいいと思います。そういったとても良い事例なところです。で今回はどういうふうに判断したのかというと、極端化するってことはあるんだろうと思います。

ただ肯定側がいうように、じゃあそれはどういう観点なのかっていう深刻性の部分ですね。これはどちらかというと反論というよりはある種デメリットに近いような発想です。

ですので、ここのところは事象としてこういうことが起こるっていうのは分かるが、それはどれだけ深刻なのかってことに関してはもう少し説明がほしかった。そういう印象を受けております。

そして次のBのところにいきたいと思います。次のところは詳しくまとめると要は時間が足りないというものだと思います

審議の時間が足りない、国民に時間が足りない。この話をどういうふうに考えてきたのかということです。

この点に関しては時間が短い、足りないということは不利に働くだろうっていうのはジャッジ全員が共通見解です。もしかしたら肯定側がいうようにうまくいくパターンもあるんだろうけれども、一般的に考えると不利に働くよねというふうには考えております。

そして重要性、実はここのところは一つ今回大きな試合の分かれ目になっています。判定が分かれるポイントの一つが重要性に対するジャッジの判断だったんです。そして、ここはジャッジの判断が割れています。

簡単に言いますと、民意を反映するっていうことはなんで大事なのかということに関して評価が割れています。あるジャッジ、はある程度その民意を取り入れるというのは大事なんだろうなっていうふうに思った。そのジャッジは肯定側に投票している。あるジャッジは否定側の民意っていうのは必ずしもいい物ではない。なんでもかんでも取り入れればいいってもんじゃないでしょ、バランスがあるんだという反駁に対して、なるほどと、じゃある一定条件で民意を取り入れるってそんなにいいことじゃないことではないのかもしれないな、そうするとじゃ民意を反映するっていうことってそもそもなぜ大事なんだろう、国民主権だから大事だって話はあるけど、きっと何かいいことがあるから国民主権にしているはずだ、じゃその理由は何だろう。それについては今回話にでてないかなっていうふうに考えたときに、ちょっとこの重要性というのは大きく減じられるじゃないのって考えたジャッジもいます

このように、重要性の評価は割れているんですけれども、最終的にメリットは発生するというふうに全員がとらえています。したがって問題はデメリットの比較になります

それではここのところなんですけれども、否定側の反論に関してまして、今回の試合を決める上での論点になっていると思います。

1つは官僚というのはどういうひとたちなのか、それからもう一つは国民というのは正しい判断が出来るのか出来ないのか、そしてそれに対する実例が今回適切なのかですね。それではみていきたいと思います

国民は正しい判断が出来るのか出来ないのか、肯定側の方にも関連するところですね、ここからちょっと話をしていきたいと思います。

今回のところで肯定側は国民が間違うというところに対して国民は正しい判断が出来る出来ないという話のところで反論してきました。情報が少ないと国民というのはとりあえず反対したり棄権したりする。よくわからないんだったら、やめたほうがいいよねっと現状維持の立場ととるという証拠資料を読みました。

これに対して否定側は目先の利益で流される、そういうこともあるよと、単に情報だけの問題だけでなくてというふうなお話をしていたというふうに思います。

ここのところなんですけれども、少なくとも国民は自分たちが分からないなって思ったときにどういう行動をとるのかというと、基本的には現状維持の立場をとるんだろうということについては否定されていません。なので、国民のそういう性質はあるんだろうなというふうに考えております。

そうなると目先の利益っていうのがどれだけ大きな問題なのかってところが課題になる。これが今回事例のところで話に落とされた

事例は2つある。1つはイタリア。イタリアについてどう考えるべきか、

ここで肯定側からあった反駁は目先のムードに流れたものではない、なぜなら国民は30年間反対し続けたから、と言う話でした。このところをどういうふうに考えるべきか。ここは30年間国民が反対していたという事実は最終的に合意されました。そうすると、ムードに流される流されないというような話っていうよりは間違った判断、否定側が言うような間違った判断、実際に電力停止が起こるとか、こういった問題を払ってでも民意は保つべきか、民意を守るべきか入れるべきか入れないべきか。最後比較のところで決着がつく話としてジャッジを考えました。

従って、さきほど言った肯定側の重要性に対する評価の仕方というのがここでも大きく影響を与えたということです。

では2つ目。カルフォニアの例。カルフォニアの例に関しても同様に考えたということ。こてはほぼ同じ反論をしている。つまり最初は分からなかったかもしれないけど、今でもみんないいと思っているんだったらいいんじゃないって話です。このところも実は先ほど言った話でいやでも悪いことと思ったじゃないって、入ってきているので実は原発の問題とほぼ同じようなストーリーで比較の話になってきてしまう。とういところがあります。

このように実は考えてみると肯定側のメリット、デメリットって、それぞれにかみ合っていてですね、お互いが最終的に出してきた論点がすべてですね1つにつながっていった。この流れというのがまさに最初に言ったコミュニケーションの部分。それを成立させているのはお互いがお互いの理論を分かっていたところにあったんだろうというふうに思います。

そして最終一番大きなジャッジの見解が割れたのが官僚とはどういう組織なのかというところです。

あるジャッジはこう考えた、肯定側が言っていた官僚が間違うという話と否定側は正しいといっている話。否定側はなぜ官僚がいいのかっていうと整合性があるからと言っている。肯定側の反論は専門性があるが故に間違うことがあるという話をしている。

実はこの点に関してはジャッジは全員認めています。

一番の問題は何かと言うと、じゃその官僚のもつ専門性故の間違いというのは、どれだけ大変なこと実害まで結びつくのかつかないのかということろについてジャッジの判定が割れています。

肯定側の資料には1、2行程度だと思ったんですけれども、こういうことが起こったよって話は載ってた。だけどそれだけで本当にすべてが悪い、本当にすごい深刻なことが起こったとまではいいきれないんじゃないかというふうに考えた場合、整合性に変わる軸ですね。国民が勝っているという軸が肯定側から積極的に掲示されない状態になってしまっているんであれば否定側のいう官僚といった部分が重要なんじゃないかというふうに考えたジャッジは否定側に投票し、そうではなく官僚も国民も間違うのであるならば国民投票という方法で国民がまだ納得できる判断をした方がいいんじゃないかと思ったジャッジは肯定側に入れているということになります。

つまり判定は割れている。

<2.4> コミュニケーション点

それではコミュニケーション点申し上げます。肯定側 立論18点、質疑17点、応答15点第一反駁18点。第二反駁、21点合計89点

否定側コミュニケーション点立論18点、質疑20点、応答16点、第一反駁17点、第二反駁16点合計86点です。

<2.5> 判定

準決勝ですので、どちらかのチームが決勝へどちらかのチームは残念ながら今年のディベート甲子園は終わりと言うことになってしまいます。ただ今回の試合が証明してくれたようにディベート甲子園が生み出す物は勝ち負けではありません。これだけの戦いが出来て真剣にこの問題をついてやってきた、これだけの仲間が出来る。そしてそれを支えてくださった保護者の皆様、先生の皆さん、学校。こういった人たちにささえられてこういった試合が出来る。これはですね見てもらったことこれが何よりも重要なんだと思います

国民投票という問題は今回ディベート甲子園の際にやりましたけれどもまだまださまざまな議論は可能ですし、ディベートというのは、今回は否定が現状以上の立場をとりましたが、大学生になっていけばこれがですね今度は対抗政策という形について考えるといったような新しいフィールドでもディベートを考えることができます。

そこで最後に僕からの提案です。ぜひディベートを続けて頂きたい。

そのための一つの道しるべと言うか、道程の一つがこのディベート甲子園まだまだディベートが続いていくことを期待しています。

それでは判定です。

今回の試合は4対1。肯定側鎌倉学園高校の勝利です。
おめでとうございます。

第2部 講評者へのインタビュー(編集部)

第2部は編集部から講評者へのインタビューとなります。本来であれば、ここは渡辺徹さんが私にインタビューするところです。ただ、残念ながらそれはかないません。

そこで、このパートは私が講評者の皆さんに質問した内容について自分で書くことにしたいと思います。そして、偶然にも私の回答には渡辺徹さんとの思い出が絡んできます。何とも不思議なご縁です。

ジャッジインターンが生まれた日の思い出~講評と判定は別スキル~

私の基本的なジャッジに対する考え方については、この連載に登場してくださった田中時光さんも紹介してくださっていますが、論文でも発表しています。

久保健治「日本語ディベートにおけるジャッジ教育の方法論—ジャッジインターン副審養成講座の実践報告」ディベート教育国際研究会論集 第1巻(2017)

同じことを話しても面白くないので、昔話に一席お付き合いいただければと思います。私が敬愛してやまない桂米朝師匠は現代ではもう話されなくなった昔の噺を数々復活させた大功労者でしたので、趣旨にもまあ、ずれないかなと勝手に判断いたします。

しっかりとした時間軸は覚えていないのですが、確か私がジャッジインターンという名前でジャッジ教育プログラムを開始してから今年で15年ちょっとになると思います。おかげさまで、延べ参加者数は100人以上にはなっていて受講者の多くが全国大会で主審などを実施されています。

それは私がディベート甲子園における準決勝の主審を務めた時のことです。もしかしたら初めてだったかもしれません。あまり覚えてはいませんが、いずれにせよ経験が浅い時です。

その試合で私は議論の応酬のみならず、ディベートを学んでいくことの価値ということについて初めて話しました。そう言わせるだけの素晴らしい試合だったのです。「ディベート甲子園が終わったら、ディベートは終わり」というのは勿体ない。競技としてのディベートはしなくても、ディベートで学んだ力を社会で発揮してほしい。と純粋に思ったので、そういった試合には直接関係ない話を盛り込んだわけです。当時はそういうスピーチをする人は結構少なかったと記憶しています。

で、そのスピーチが終わった後に古くからお世話になっていた顧問の先生から「すごい良かったよ!!」と絶賛に近いようなご感想をいただきました。また、保護者や当時のスポンサーなどからも非常に良いコメントをもらった次第です。

若かったのもあり、ここまで褒められると気分が良いものです。やや意気揚々とした気持ちでお昼ご飯に向かいました。そこで偶然、徹さんと徹さんの大学からのディベート友人であるUさん(私も知り合い)と出会います。お二人とも私の講評判定を聞いてくださっていたので、自然と私も感想を聞きたくなります。まあ、正直いえば褒められると思ってましたんで、気軽に聞けるわけです。こういう時、人間は恐れを知りません。

ところがです。Uさんは会うなり「久保ちゃん、やっちゃったね!」と言いだします。一瞬「ん?」と思いました。別にこの前会った時も失礼なことはしていないはずだけどなー。あれ、もしかしてこの前の飲み会でご馳走になったけど、あの時は調子乗って飲み過ぎたのか。などなど。で、話をすると、Uさんは私の判定とは違う判定をしていました。そう判定をやっちゃったね!(ミスしているよ)という意味だったのです。準決勝は5人ジャッジで、その試合では3-2。ですが、私は3票に投票してましたのでUさんからすれば判定が未熟だぜ!という対象です。

そこで、私とUさんで判定について意見交換&議論しました。あっ、ちなみにディベーター同士なんで、怒ったり、怒鳴ったりはしてませんよ(笑)お互いの見解について話し合って、判定のどこがポイントなのかを互いに検討したわけです。徹さんは私たちの話を静かに聞いていました。

その話はとても勉強になりました。私としてはかなり自信をもって判定していたのですが、確かにそういわれればそういう視点はあるなと思いました。そこで、徹さんも発言しました。しっかりした言葉は覚えていないのですが、簡単に言うと「ディベート甲子園は、大学ディベートとは違う価値や意義がある」というものです。

その体験を通じて、私はジャッジインターンプログラムを作ることにしました。そこで得た教訓は「講評と判定は別スキル」というものです。

上記に関して、Uさんは判定にフォーカスして意見を言っていました。一方で、私の講評を評価してくれた人のコメントは恐らく判定というよりは、講評全体が良かったという話だったのだろうと私は解釈しました。つまり、判定と講評は互いに関係しているのですが、スキルとしてはそれぞれ別の力になります。実際に、その後調査したところ、保護者の方で「試合は良く分からなかったけど、ジャッジの方は良い話をしていた」という感想を聞きました。

考えてみれば、これは当たり前です。ディベートでも同じエビデンスであっても、スピーカーの能力で全然重みが変わる経験はディベート経験者であれば何度も体験しているでしょう。落語だって、同じ噺でも噺家が違えばもはや別物。判定と講評を一体として学んでいくことが、良いジャッジになる道だということに気づいたわけです。確かに名物ジャッジと呼ばれる人は、何より話が面白い。なんか、色々と閃きました。

ですが、ここで問題発生です。私は判定については色々と学ぶ場や機会はありましたが、講評についてそういう場所はありません。まったくの我流でした。もっとも、講評は「芸」なんで教えたからってできるものじゃありません。でも落語をはじめ芸事は修行期間があるわけで、やはり学ぶ場がある。互いに切磋琢磨する場所がある。

ということで、ジャッジだって講評と判定について学びあう場所。切磋琢磨する修行場所を作った方がいいなと思いまして、ジャッジインターンというプログラムを作って現在に至ります。

いまや、ジャッジルームでは試合が終わった後にお互いに講評判定について議論したり、フィードバックを求めるようなことが一般的になってきました。実際、私が見る限りでもディベート甲子園のジャッジレベルは非常に高いと思います。

個人的には、この「芸」はディベート甲子園で終わるものではないと思っています。経営、社会活動、様々な場所でより「講評判定」が求められる時代になってきたとすら思います。不透明な時代だからこそ、自分の判断をしっかりと伝えられる力は何よりも重視されるのではないでしょうか。そして、様々な勉強や体験、そして他者との議論を通しながら自分なりのしっかりとした判断基準を持った時に、それは「芸」になるのではないかと思っています。

私自身はこれからもたくさんの「芸」が生まれる場所を作ることに貢献していきたいと思います。ディベート甲子園に限らず、このディベートが本来持っている豊かな価値を社会に実装する活動をしていきたいと思っています。実際、新しいプロジェクトも動き出しています。ディベートジャッジスキルの寄席を作るという感じでしょうか。憧れの席亭ということで。

徹さんから最後の最後で大きい宿題をもらってしまいました。

芸は継承されなければ続きません。そして、それは私1人ではできません。

1人でも多くのディベーターがジャッジとして継承に貢献してくださることを心から望んでいます。いつの日か、この文章を読んでくれたあなたと一緒にジャッジをすることを楽しみにしています。

2023/9/13 徹さんを偲ぶ会の日に

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