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20代は、つらかった。【耳で聴く美術館】

8月のはじめ、私は30歳の誕生日を迎えることができました。
歳を重ねることがあまり嬉しくなくなった20代折り返しの時、父は言いました。

「大きな病気も、命を落とすような事故に遭遇することもなく、ここまで生きてくることができたことに、改めて誕生日に幸せを噛みしめるようにしているよ」と。
この言葉をもらってから、私は誕生日にいつも父の言葉を思い出すのです。

父はまじめだけれど、どこかユニークさも持ち合わせていて、休みの日には中学の時の同級生たちと卓球をして、汗を流した後はみんなで株主優待券でマックまでドライブするという何ともたのしそうな日々をおくっています。

さて、話を戻しますが、振り返ると20歳になったときはまだ大学生でした。
バスケットボール部のマネージャーをしていたころ、一つ上の先輩たちは総合商社や大手自動車メーカーなど大企業からの内定を獲得し、キラキラ眩しくって自分もそうなりたいと強く心に決めたことを覚えています。

20代。親の手を離れて、これから何にでもなれる可能性に胸を躍らせるとともに、生まれてからずっと不況なこの世の中を生き抜いていかなければならない、不安もありました。

私は心配性なので、正攻法を取りたかったのです。正攻法なんてものはこの世の中にないことを20歳の私は知る由もないのですが。

就活では、100社以上にエントリーし、駆けずり回った結果、魅力的な企業に内定をいただき、人生の不安から解放された気分でもありました。
新卒で入った会社での新入社員研修は2ヵ月間、毎日毎日グループワークの連続でした。
私は人にどう思われているかすごく気にしたし、自分の放った言葉がお門違いじゃないか?そんな不安に毎日押しつぶされそうでした。
人前で話すことがすごくつらく、自分というものがどんどん消されてゆき企業の一部分になることを求められているように感じました。

会社の人々も、同期たちも素敵な人たちばかりでしたが、私にはサラリーマンという働き方が合わなかったということです。
それでも、配属された工場のある地方で、毎週末同期たちと朝方まで飲み明かし、文句を垂れる中でも自分たちの夢や、海外に行った先輩の話などに胸を躍らせたのです。

自分は父からもらったユニークさを持っている人間だったので、やがて環境が合わなくなりました。自分のやりたいことと生きている状況、環境がまるで違う。
この選択をしたのは自分、しかし20代前半というのは、気持ちはまだ自分の人生がうまくいかない原因を他人に押し付けていました。
自分の人生に真に責任を持つのが怖かった。

私が会社に行けなくなってから、自分の人生に責任を持つことを学びました。そこで初めて知ったことは、引き換えに自由を手に入れられるということでした。

日々移り行く中で、変えざるを得ないこれまでの価値観や、会社に行けない劣等感。プライドが邪魔をして助けを求めることができない孤独感。将来への不安。生活への不安。不安から増長される精神的負荷。抜け出すことができない抑うつ状態。20代の10年間を言葉で示すならこんな感じでしょうか。

しかし、つらいことばかりではありません。会社の寮に引きこもり、心が不安定で何度断っても、同期の集まりに誘い続けてくれる友人と出会うことができました。彼女とは新入社員のころ、同じ部屋で2ヵ月間寝食を共にした戦友でもありました。彼女のやさしさに助けられました。

また、動画クリエイター活動を始める中で、TikTokのクリエイターアカデミー1期生に入ることができました。そこで出会った全国のクリエイターたちは年齢層も幅広く、価値観もみんないい意味でおかしくて、発想がぶっ飛んでいて、人々の心を揺らすことができる素晴らしい動画を生み出す同期と出会いました。自分のアイデンティティを示す彼らが心地よく、私は嬉しかったのです。

周りから人がいなくなることもあるけれど、空いたスペースにまた新しい人々がやってきてくれるのだなと強く感じました。

10年間、様々なことがあってたまたま生き抜いたけれど、また20歳からスタートする勇気は自分にはありません。
ただ、生きていることが大事なんだなと。

これを読んでいる20代の方々には何にもアドバイスができないのですが、もっと周りの人に助けを求めてもいいのかなと思います。

30代は自分に正直に、人々の心を震わし続けるコンテンツを作り続けられたら幸せだなと思います。あと、相棒になってくれる犬も飼いたい。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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